2014年11月19日 (水)

「自分史・聞き書き録」を始めました

Kikigaki
最近静かなブームになっているのが自分史。60歳前後、第二の人生を前にして、自分の生い立ちや長年の趣味などをまとめる人が増えている。
以前、実家に帰り、子ども時代のアルバムや写真、文集などを探したことがある。東京に持ち帰り、読み始めると、懐かしい、懐かしい! 写真に写る顔、これ誰? 確か○○君。学校帰りにケンカしたなぁ、あれから気づまりになったっけ。これは、どこ? この文章、本当に僕が書いたの?
次々と思い出がよみがえり、あれこれと想いを巡らせているうち、すっかり時が過ぎてしまった。気がつけば夕方。日が落ちそうだった。
思い出を起こしたいと考えても、「何から始めればいいかわからない」「文章を書くのは苦手」と尻込みする方に、お話を伺って自分史にまとめるのが「聞き書き録」。自分史を本にしようというものだ。
生活に追われ、なかなか話すチャンスがないまま、いつか話そうと思ったことってあるはず。あらためて話す場を作っても、面と向かって語る言葉も少ないのが現実。「若い頃、あなたたちが知らない世界を生きていたんだ!」「これだけはあなたたちに残しておきたい」と語ってみたくなる。
それを形にするのが自分史本。喜寿や米寿などのお祝いに、そろった家族や孫にプレゼントするのもおすすめだ。
詳しくは、コスモメディのホームページ「悠気奏」をご覧ください。

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2009年9月 5日 (土)

柱時計

Nigaoe_01
居間の柱にドーンと居座って家中を見渡していた柱時計。子どもの頃、柱時計の掃除は父親と決まっていた。家長の特権でもあるように。実際は、丸テーブルに台を載せてやっと届くのは親だけという理由なのだろうが、勝手にそう決めていた。

親父が成長だけは早かった僕に時計の掃除を任せたとき、荘厳な権限を譲ってもらったように丁寧に磨いた。ガラスの汚れを濡れ新聞でしっかり落とし、ほこりを落とす。ねじを2個所巻いて掃除完了。逆向きに巻くねじは、手が疲れ、休んでは巻休んでは巻きの連続だった。柱に掛けると、気分一新。新年を迎える、爽やかで晴れがましい思いに浸り、みんなに褒められるのが嬉しかった。お立ち台に立って、自分が注目されるような高揚した気持ちになった。以来、家を出るまで柱時計の掃除は、僕の任務となった。

爺さんの家に年末掃除に出かけたときも、柱時計を任された。農家の柱時計は、踏み台では届かず、身長だけは伸びた僕に命じたのだろうが、このときも家の時刻を任された気分で嬉々として掃除した。

爺さんの家は農家で1間が広く、広い部屋に寝ると怖くて眠れなかった。先代や戦死した家族の写真が壁に並んで睨みを利かし、寒々とした広さが顔をなで寝付けなかった。柱時計のカチカチと刻む音、ときにボーンボーンと驚かす音。幽霊や先代が顔を出すのでは……と怯え、早く朝になれと念じていた。

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2009年7月14日 (火)

古い写真

Nigaoe_05 首筋がなめらかにすーと落ちている。顔肌がスッキリと若やいでいる。襟章もない学生服を着て、部屋で撮影した写真。証明写真のように正面を向き、目をパチリと開いている。

どう考えても自分。確か中学入学前に学生服を買ってもらい、親父が撮ってくれたもの。撮影した当時を写真で思い出したが、これって本当に俺? と勘ぐってしまう。

少年野球チームの記念写真。どこにいる? ここから顔を出しているのが、俺?
小学3~4年生頃の集合写真。どれ? 担任の先生がいるから、俺もいるはず! どこ?

アルバムをめくりながら、お袋と検討。これだよ。本当かい? 自分の写真のはずなのに別人。アルバムから2枚シートを持ち帰り、彼女と息子に見せる。やはり、納得できなさそう。この人? などと話すうち、きっとこれだ、と相成る。

翌日、上京時に持ってきた写真を探す。お袋がアルバムに綴じていなかった写真。卒業アルバムなどといっしょに持ってきたはず。アルバムを探すがない。確か、タンスの奥に隠してきたはずだからないかも……と探してみる。見つかる。アルバムはやはりないが、1枚1枚の写真。大学時代や役所時代の写真を見つかる。こっちは現在の顔に通じる。にやけた顔。汚い顔。いまの顔とすぐわかる。

上京前と後では、人間が変わったのでは? と勘ぐり始める。息子が高校時代の写真を見て、これは近い、と指摘。高校以前かもしれないが、あきらかに別人。自分と思えない。もしかして、上京後の激動がいまの顔にしたのか。上京前は、脱皮する前か?

記憶には小学時代も中学時代も残っているが、自分の顔の記憶がない。自分の記憶を持った別人が小さい頃、カメラの前にいたのかもしれない。この人、本当は誰?

7月 14, 2009 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月17日 (水)

離脱 - 自己形成

Nigaoe_08 考えてみれば、自己の形成とは、何かからの離脱で始まるのかもしれない。親の庇護のもと、徐々に自己を形成していく。もちろん親を相対化していくことが大きなウエートになる。幼児期から兄弟や周りの子どもとの差異を意識化することで個が形成されるのだろう。

親を相対化するきっかけはさまざまだろう。甘えん坊の僕の場合、遅かったのかもしれない。10才ではなく、14才だったのだろう。

バスケットボールひと筋だった中学2年生の夏休み。母親に連れられて新興宗教団体の中学生の集まりに出かけた。それ以前にも、声がかかったうち何回かは出かけたはずだが、ほとんど記憶にない。宗教を煙ったいものと尻込みしていたし、知り合いにあったら嫌だと避けていた気がする。何回かに1回親に従っていた。

はじめに大人からの説教があったはず。まったく記憶にないが、退屈だった。とにかく2時間ほどそこにいれば親との義理が果たせると我慢していた。話も終わり、そろそろお開きかと息を弾ませると、子どもたちだけで話をしてみようとなる。どんな子が来ているかちょこちょこ見ていたが、知り合いは誰もいなかったので後ろ指さされる気遣いもないと安心していた。話をする? 何を?

近くにいた数人ずつが車座になる。近くにいた大人が仕切り、自己紹介が始まった。何を話したか覚えていないが、学校、学年、名前を名乗ったのだろう。話題もよく覚えていない。ボソボソとほかの子が話すのを聞いていた。互いに見知らぬ中学生。別に仲好しになりたいと来たわけではない。親に無理強いされただけ。早く家に帰りたいとうわの空だったはず。

どんな話からか学業の話になる。そんな話したくもないと腰を引いていたが、ほかの子は平気なのか次々と話す。最後に自分の番になる。学年で何番。流れとはいえ、言ってしまった。1学年下で隣の中学の童顔の男の子が驚き、すごい! と声をかけてきた。にやけ笑いで誤魔化す。なぜそんなこと口から出てしまったのだろう。自慢話になってしまった。言わなくてもいいものを。なんてバカなのだろう。適当に誤魔化してもよさそうなものを。

帰りは自分に嫌気がさし、親とは口も聞かず黙々と歩いていた。言った自分のアホさ加減にほとほと嫌になっていた。醜い自分に腹が立って仕方なかった。自分が見え透いたのだろう。

以来、親から声がかかっても行かなかった。14才とは遅かったのだろうが、これが離脱だったのかもしれない。もちろん、離脱と構えるほど意識していたわけではないが。

6月 17, 2009 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年12月19日 (水)

未確認飛行物体

フランスに留学する、が役所を辞める理由。遅刻常習の係長がいないので、課長に辞表を提出したのが辞める前日。翌日から有給休暇で二十数日休み、約1か月後に退職。準備万端。机の上や引き出しの中を片付け、健康保険証などを庶務担に渡す。仕事を終え、定時に帰る。突然の事態に、何の反応もなし。拍子抜け。こんな風にして辞めれるものか。

翌日朝、いつものように目覚める。本当にきょうから休んでいいものか、不安になる。出してしまった以上、休んでもいいはずと二度寝。9時過ぎ、電話が鳴る。前の係長から。課長から話しを聞いた。辞職願にハンコがない。押しに来い。いつものように苦み走った口調でそれだけいうと、電話が切れる。えっ、俺としたことが押印忘れか! どこか抜けているんだよな。仕方ない。印鑑持って行くか。それにしても、なぜ前の係長なわけ?

課長の前に進むと、慌てて立ち上がる。ちょっと、と廊下に出て、スタスタと進む。何がはじまるのかと追いかける。上階の空き室。係長も付いてくる。

いつフランスに? 明日です。突然どうした? 前から決めていたのですが、言い出せなくて……。まずいことはしていないだろうな? ……??? 何もしていませんが……。

これまで課長からこんな風に話されたことはない。あとで考えるに、突然の退職って、金銭的なトラブルなどが多いのだろう、サラ金とか。辞めたあとに問題が出たら大変ということだったのか。貧困(品行)方正だけが取り柄。就職するときから決めていたこと。突然ではあるが、予定の行動。確認後は、大した話しもなく解放。辞職が認められた。

フランスに行ってみたかったが、翌日乗っていたバスは、山梨の自動車教習所行き。20泊の合宿で運転免許を取る。4年数ヶ月の役所生活から逃げるように辺鄙な山奥にある合宿所に入る。誰にも話していなかった、彼女を除いては。

合宿も第3段階を過ぎると暇。大部屋で仲よくなった数人と夕食後、山を下りて田んぼの脇にある1件の飲み屋に入る。9時過ぎ頃、合宿所に帰る登り道。山の向こうに光るもの。じっとしているかと思ったら、動き出す。急に速くなり、スーッと消える。なに? しばらくしてやっと声を出す。見た? あの向こう。光るもの。友人は見ていない。急勾配の上り坂。みんな下を向いていた。円盤だよ。消えた! 誰も信用しない。真っ暗な山の上に、光の残像。あの辺り、と指さしても、見ていないものはわからない。きっと円盤の宇宙船。はじめて遭遇した未確認飛行物体。

12月 19, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月29日 (日)

親父の誕生日プレゼント 自分史

親父の誕生日は知っていたが、プレゼントなどした記憶がなかった。何を思ったか、小学6年のとき、プレゼントすることにした。確か近所の友達と話している中で出たこと。

何を? お金を持っていない子供ゆえ、プレゼントといっても限られる。でも、お手製の絵やカードじゃ、様にならない6年生。ませていたか。話をしているうちに、ライターに決まる。当時、「しんせい」を愛飲していた親父。ライターなら日頃使うだろうと思ったに違いない。

ライターといっても、どんなものがあるか、どの程度の値段なのか想像がつかない。自分のお金で100円以上の買い物をした試しはないはず。金銭感覚がわからない。友達は末っ子で兄が働き出していたこともあり、いろいろ聞いてくれていたようだった。毎月の小遣いをコツコツ貯めていた郵便貯金から、親に内緒でおろす。毎月貯めに行くことはあっても、おろしたことなどない。恐る恐る手にした大金。確か千円。隠すにも手が震える。

翌日、友達と駅前のデパートへ。ライターがどこで売っているかもわからず、何でも売っているデパートならあるはずと。でも、子ども2人、高額な買い物するのは不良。捕まりかねない。そこで、デパート近くの駅前ビルの専門店街に行く。はじめて入ったところ。完全に不良。2人で恐る恐る回る。ライターが陳列されているガラスケースの前で止まる。輸入品を展示しているそのケースは、きれいに磨かれ、子どもが近寄るのも憚れるほど輝いていた。もうやめよう、と友人にも話し、何度も帰ろうとした。でも、輝くガラスケースに小さく収まっているライターは、僕らを離さない。

きっと店員さんが声をかけたのだろう。買い物するはずがない。あっちへ行きなさい、というつもりだっただろう。お父さんへのプレゼントなんですが……。いってしまった。もう引き返せない。店員さんは、おやっお客かと愛想よく語りかけたような気がする。引き返せず、もう覚悟が決まった。途端に金額が目に止まった。勘弁してください。そんな高価なもの買えません、子どもなんですよ、お金なんかそんなに持っているわけないじゃないですか……。ことばに出ず、ただただ店員さんのことばを上の空で聞いていた。隅の方にある安いものしか金額が合わない。そのケースの中じゃ安いが、小遣いに比べれば雲泥の差。持ち金でなんとか都合つくが、そんな高価な買い物したことがない。

もう退けなくなった。エイッ、店員さんが紹介もしない、隅の小さいライターを指さして、これ下さい。話は決まった。紙ケースに入って包まれたライター。思いのほか小さい。不良の買い物が見つからずに済んだことの安心より、大金がこんなにも小さいものに化けるのかとがっかり。

家に帰って、親父に渡した。お金を使ったことを怒りもしなかったが、喜ばれた記憶もない。まして、そのあとそのライターを使っていたかどうかも覚えていない。もう懲り懲りだった。不良して、町の真ん中で大金使ったことだけが残った。それ以来、親父にプレゼントはしなかった。

4月 29, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年4月28日 (土)

ばくだん-米ふかし  自分史

小学生の頃、家の前の道路で遊んでいると、遠くでバアーンと鳴る。何ごとかと駆けていった。リヤカーで引いた「ばくだん」だ。大音響に子どもたちは、みんな鬼気としていた。甘い香りがそこいら中いっぱい。嬉しくて腹が減った。おじさんを引っ張って、家の近くまで来てもらう。

家に入ってお袋に、お米とお金をねだる。連れてきてしまった以上仕方ないと、お金を出す。20円ぐらいだったか。お米をご飯茶碗に入れて、おじさんの元へ。もうすでに向かいの子どもが一番乗り。並んで待つ。お米を筒に入れ、砂糖を一匙。指で耳栓して今か今かと待つ。しばらくすると、バアーン。木箱に膨れあがった米ふらしがいっぱい。甘く温かい香りが堪らない。何に入れて持ち帰ったか、とんと記憶にない。きっと鍋だろう。木箱から取り出してもらったら、家に急ぎ、縁側に腰を降ろし茶碗に分けて食べた。口に温かさが広がった。

ずーと気になっていた。あのお菓子は何だったのだろうって。似たものは袋詰めで売っている。でも食べたけど、米ふかしとは違う。その先入観で目が狂っていた。冷えると同じものになるようだ。袋入りで売っているものは、甘さを抑えていたよう。でもばくだんで食べた米ふかしは、格別の甘さと香り。調べたら、10倍に膨らんでいるらしい。茶碗1杯が鍋一杯になるわけだ。

ばくだんは、ときどきしか来なかった。数ヶ月に1回ぐらい、忘れたときにやってきて、耳をきーんとさせる音を残して去っていった。固い米が膨れあがるのが手品のようで、信じられなかった。

4月 28, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月12日 (木)

新入職員  自分史

公務員になって研修が終わるころ、配属先がわからず不安。わかったところで、どんな情報もないのだから変わりはないはず。決まった先は、明るい職場。うるさ型の人もいるらしいが、好人物のよう。不安を隠して配属された職場に向かう。

翌日、大先輩から声がかかった。年の頃、70過ぎ。だいぶ老けている。僕の若い頃は、みんなが出てくる前に来て、机を拭いて待っていたものだ。君もそうしなさい! えっえー。有無を言わせぬ口調にただただ頷くだけ。9時始業だから5分前でも充分なのに……。大先輩のいうことだから、封建的な制度が残っているのだろうか。仕方ない、すぐ出しゃばるわけにもいかない。以来、30分前に一番に出て、机を拭き、ほかの人を待っていた。

同期に聞いてみたが、ほかにこんな憂き目に遭っているものはいない。外れだった。このお年寄り以外は、みんな優しい。だいぶ経ってから、早く出なくてもいいんだよと声掛けてくれた先輩もいた。でも、このお年寄りには直接言ってくれない。仕方なく、大先輩のOKが出るまで続ける覚悟。このお年寄り、在職中、声をかけてくれたのは数えるほど。いかに重要なことだったのか。

職場の事情がわからず、ウロウロしているものが捕まった、ということらしい。徐々に仕事や職場に慣れるにつれ、声も普通に大きくなり、我が物顔にうろつきはじめた若造は、確か夏過ぎには、9時少し前に来ることを決意。お年寄りの顔を見ず、忙しそうにすぐ仕事についた。数日は冷や汗もの。いつ文句を言いに来るか、気が気でなかった。できるだけお年寄りの席を遠ざけていた。

4月 12, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年3月23日 (金)

ふるさと  自分史

高校の現代国語の教科書で出会った詩。
室生犀星、「小景異情」。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

寒い夜、教科書を前にして
肩を丸めて目頭を熱くしていた。
何度も何度も口ずさんだ。

仙台、近所、親族、家族……
地縁血縁に縛られることの重さから
解き放されたい、と苦難していた頃。
別に誰かが悪いとか、
自分が悪いことをしたとかじゃなく
ただ重くのしかかる、その重圧から逃れたい
自由に飛び回れるところに飛翔したい……
それが都会、東京だった。

対極に位置するものではなく
絶対なものとして
地縁血縁から解放された都会を思い描いていた。
室生犀星とはまったく違うところで
詩を自分なりに詠み込んでいた。

東京の生活に嫌気をさして、
仙台に想いが及ぼうとすると、
暗い冬空の金沢を想像して耐えようとした。

3月 23, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月15日 (木)

夜襲 自分史

フランス人との同居も1~2か月で終わった。ほとんど会話らしい会話が成立しないまま、いなくなった。どうもこのマンション、人が集まってしまう。

新宿で飲んで勢いがついた学生や、現代ならフリーターがタクシーで夜襲。フリーターなんて格好いいものじゃない。定職なしの元活動家や、現活動家。マンションには、布団だけは何人分か余っている。自分の家やアパートに帰ることができず、近場と車に乗ってくる。

すでに夜半。何人かで玄関を叩く。そろそろ寝ようとしている頃。大人しく寝てくれればいいのだが、よっぽど楽しかったのか話始まる。その上、酒催促したり、飲みに出ようと叫ぶ。明日朝も早い労働者と思っちゃいない。人がよいのか、仕方ないかと付き合う。2~3時頃まで飲んで、部屋に戻って寝る。まだ寝ている数人を起こさないように、朝静かに役所へ。ひどいときは、夜帰るといないので、静かにテレビでも見ていると、また来る。飲んべえのたまり場と化していた。

学生のグループは来ても大人しく布団に入るが、うるさ型のフリーター連は黙って寝ることができない。別々のグループが日を問わずやってくる。マンションには電話がなかったから、来ればいるはずと車を飛ばす。サラリーマン生活をしているのは僕だけだから、必ずいると疑っていない。
マンションは夜11時頃まで静かで、それ以降は日々動きが変わる。役人していても、学生っぽい生活がそのまま続いていた。

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2007年3月 1日 (木)

フランス人と同居 自分史

役所にいた僕は、何も知らなかった。マンションにフランス人がいた。まったく日本語が話せない。会話が通じない。とにかく知った英語と、とにかくわかれ! と日本語で話すしかない。

成田空港から東大教育研究所に、フランス語で電話があった。どうも事務所に向かいたいがどうすればいいか? という話。君は誰? まったく話が通じない。とにかく事務所まで何とか来てもらって話を聞く。フランスの医学生。知り合いの日本人留学生が東京の東大教育研究所を訪ねれれば、あとは何とか面倒みてくれる、という話を真に受けて、単身飛行機に乗った。東洋医学を勉強したいといことらしい。ホテル代、食事代など、ろくに準備しておらず、帰りの飛行機代もない。行けば宿もあるし、食事もできる、と聞いてきたらしい。日本語が通じないもどかしさを何とかクリアして、ある程度フランス学生の意図はわかる。

泊まる場所は、我がマンション。働き口は、フランス語を勉強したい人を探して会話教室で。東洋医学は、マンションで鍼灸教室を開いて実地体験。もちろん、その手配は所員がする。何もないところから始める。会話教室は、何人か探しで稼ぎ口を見つける。鍼灸教室は、看護士仲間や中国通の人が集まり、中国語の本を探し出して始める。人騒がせなフランス人は、こんな事情はほとんど知らないはず。

マンションで4人生活が始まる。フランス人は6畳まで計3人で寝る。日本食はほとんどダメ。贅沢ものだ。ある日、肉野菜炒めを作っていた。帰ってきたフランス人に夕ご飯は? と聞くと、まだの様子。食べるかい? と聞くと、御飯と味噌汁、肉野菜炒めでは無理のよう。ちょっと待った、と料理を始める。残っていた野菜を切り、サラダ油を目一杯フライパンに敷き、油ギタギタのまま炒める。油に浸した野菜炒め。見るだけでも気持ち悪い。皿に盛ったら、御飯を足した。なんだ、御飯と野菜炒めを一皿で食べるのか。なら、日本食と変わらない! いや、サラダ油を取り出し、油が皿から溢れそうななか、御飯の上からサラダ油をかける。ドクッドクッ。皿中、油。油ギタギタの御飯と野菜炒めを、フォークでかき混ぜ、食べ始める。サラダライス、サラダライス、といいながらうまそうに食べる。食事が終わって見ていた3人は唖然。気持ち悪いほどの油。ゲップが出そうになる。

ほとんどマンションにはおらず、どこかに出かけている。寝に帰ってくるだけ。その日も夜中に帰ってきた。夕飯は? 食べた。お金がほとんどないはず。お金は? ハナコさ~ん。何それっ。どうも新宿の街角でフランス語で女性に話しかけると、仲好しになる。お金なんかなくても、女性が払ってくれる。片言の日本語と大半のフランス語で煙に巻いてしまうようだ。毎日のように食事を外で食べる。聞けば、またハナコさ~ん。同一人物じゃなくも、女性はみんなハナコさ~んとなる。名前など覚えていない。もちろん、話も通じないからだろう。フランス人に弱い日本女性。確かに色白で知性あふれそうなフランス人。医学生とわかれば、御飯ぐらいご馳走してもと思ったのだろう。

1~2か月ほど、同居。手荷物だけなので、いつ引っ越したか覚えていない。そのうちいなくなった。お金を稼いで、アパートを借りたはず。もう関係ないと思っていたのは、労働者の僕だけ。周りは学生が多く、暇な人がフランス人と会っていたようだ。夏の学校が終わった休み。フランス人を含む数名が東北旅行としゃれ込んで、仙台の実家に突然訪れ、たらふくご馳走になって嵐のように去った、という話をあとでお袋から聞いた。知っていれば止めたのに……。親不孝な息子の知り合いとはいえ、かなり動揺したらしい。その中に女性がいたので、お前の彼女か、と詰問された。そんなんじゃない! 異常な空間が仙台を急襲して、その後始末が大変だった。

でも、フランス人はまだよかった。

3月 1, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月16日 (金)

度肝を抜いた今陽子 自分史

度肝を抜かれた。黒ずくめのパンタロンスーツに、黒の山高帽。
♪忘れられないの~、あの人が好きよ~、青いシャツ着てさ~、海を見てたわ~♪
「恋の季節」。バックに黒のおじさん4人を従え、堂々と歌う若い女性。体が大きく、大人びた姿。格好いい、と痺れていた。

歳を知ってさらに驚き。何と同じ歳。高校2年、17才だった。ろくにテレビなど見ていなかったが、偶然見て目が釘付け。まぶしい! 同世代の人が一躍格好良く登場しているのが羨ましかった。自分は何をしていいかわからずフラフラしている。なのに、目的を持って歌手デビュー。同じ歳なのに、ビッグになって活躍している。

競争とは違う、憧れとも違う。羨望。そして自分のだらしなさに焦り。山高帽をサッと降ろす姿のすっきり感。何かを切ったような爽快感。年末、歌番組で何度見ても震えていた。

そう、進路を決める季節。高校1年までは、設計技師になるつもりだった。手に職を持て、という親父の忠告に素直に従っていた。中学生時代には、設計士が使うコンパスや定規などを一式買ってもらっていた。暇なとき、図面を引いて遊んでいた。新聞に入ってくる一戸建てのチラシを見て、図面引きのもの真似。図面を引いていると、没我の境地だった。

農家出身のサラリーマン工員の親父。手に職持っていないと、人生渡っていけないと痛感していたのかもしれない。そんな思いは露知らず、一級建築士になれば、お金もいいし、仕事にあぶれることもなさそう。格好いい仕事と疑っていなかった。

そんな時期に流れたのが、この今陽子の「恋の季節」。もう稼いでいる! 考えられなかった。理系向きの成績。設計士にはいいが、何する? 高校3年になる前に、理系・文系を決めなくちゃならない。何したいの? 格好いいなあー、ピンキー。

2月 16, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月15日 (木)

男3人のマンション住まい 自分史

せっかくのマンションだから、何とか維持したい。
話があると、飲み屋に誘われて出た言葉。それまで東大教育研究所の所員2人が住んでいた。同郷の一人が出て、残り一人では維持できない。若手の一人と、役所勤めの僕の3人で、マンション住まいを……と頼み事。家賃5万を、二人が1万5千ずつ。残り2万が僕。あとでわかるが、電気水道、管理費など約1万は僕持ちになる。

6畳の木造アパート住まいだった。独り者の悠々自適のサラリーマン生活。冬のお風呂屋さん通いは、少々遠く冷えもするが、不満があるわけではなかった。大家は煙たそうにしていた。
お調子者ゆえ、引っ越すことにした。当然、仙台への仕送りは止める。親に済まない。

2DKのマンション。4畳半に一人入り、残りの二人は6畳に布団を並べていた。生活のリズムが、まったく違う。朝、二人とも寝ている。静かに起き出して役所に出勤。夜仕事から帰っても、まだ帰らない二人。若手が帰ってくるのが、9時過ぎなら、もう一人は11時過ぎ。帰って来るなり、ラーメン食べに出よう、となる。野球好きで、佐々木信哉の「プロ野球ニュース」を、近くのラーメン屋で見るのが日課。

それまで一人孤独にアパートで生活していたが、3人住まいになると、一人の時間がない。一人でいても、いつか帰ってくる。夕飯は? 食べた。そう。ダイニングでテレビを見ながら、きょうの出来事を語る。遅く帰るものも話に加わると、夜が遅くなる。

当時、中村雅俊主演の青春ドラマ「俺たちの旅」が流行っていた。日曜、夜8時から。それほど好きでもなかったが、若手がこの番組が楽しみ。必ず見る。部屋にいれば、見ないわけにいかない。男3人が主人公のドラマを、我が身に映していたのか。当然、サラリーマンで生活安定している僕は、グズロク役か。

3人のバラバラな生活は、リズムの違いを超えて平凡な日々……、と思いきや、人の集まるところには人が来る。「俺たちの旅」はドラマではなかった。

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2007年2月 4日 (日)

初々しい女性に囲まれる役所 自分史

男だらけの無粋世界が当たり前だった。県内は男女別学ゆえ、高校は男子校。毎年のように生徒会が男女別学か共学かのアンケートを取っていた。女子がいれば雰囲気が一変するのだろうが、結構別学のままがよいが高率。男だらけの気さくさ、野暮ったさに馴染んでいた。大学の学部も女性は少ない。大半が男。ずぼらな性格には似合っていた。

役所に入ると、同期の研修が2週間。半分近くが女性。しかも高卒の初々しい女性陣が多い。キャーキャー、ワイワイ。どんな話にも悲鳴のような高い声が続く。とにかくよく笑う。何人かでグループ作る女性陣。戯れる声や仕草がいっぱいに広がる。研修が終わっても、同期で集まっていた。

はじめはハイトーンの社会人1年生女性陣に馴染めなかった。これまでの男世界、しかも孤独な学生風のアンダーな世界に浸っていた生活からとは別世界。明るく屈託のない笑顔がまぶしかった。洞窟から出て、日ざしのまぶしさに面食らっているようだった。すぐ斜に構えるところが悪い癖。異星人との出会い、と距離を置いていた。

でも、お調子者ゆえ、慣れてしまえばアホ丸出しの変貌。話が付いていけなくても輪の周辺で騒いでいる子どものように、騒いでいた。カルチャーショックを楽しむだけの余裕も生まれた。この女性陣、確かに異常だった。時間の経過とともに、この同期の女性達がひと目につくほど活発なのもわかってくる。その隅にいるだけで、自分もその世界の一員と思われるのが気恥ずかしい反面、ちょっと自慢にもなっていた。

一番の問題は、同期と話す中味がないこと。頭が固い。政治や社会思想や学問の話なら、少しはできても面と向かってできない。クイズやトンチ、芸能、テレビなどを面白がって話すほど、その筋に長けていない。異星人との出会いは、曖昧さが信条のものにチャレンジのチャンスになった。口数なら負けないが、話題には付いていけない。少しオブラートに包んで土俵を広げれば、そこに新しい自分の世界ができていた。僕の方が異人変人と思われつつも、その場の雰囲気に馴染んでいた。

女性との距離を見定められるようになる。元来、直情型。好き、嫌い、普通がはっきりしてしまう。同期との出会いは、一皮むけた自分の誕生だったかもしれない。

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2007年1月20日 (土)

兼業禁止 自分史

地方公務員が兼業禁止なのは、服務規程で定められているから知っていた。どうなのかな、ボランティアで寸志を謝礼にもらうのは? いまじゃ厳しいかもしれないが、30年以上前は曖昧だった。当時「ボランティア」という言葉はあまり普及しておらず、「社会福祉」が一般的。

そこで、社会福祉をすることに。子どもたちを自然に連れて行って、野外活動。
夏休みには、7泊8日の「夏の学校」。飯ごう炊さん、農作業、登山……。
冬休みには、3泊4日の「冬の学校」。スキー、そり遊び、餅つき……。
春休みには、3泊4日の「春の学校」。飯ごう炊さん、開墾、砂浜遊び……。

有給休暇を取って参加。終わった翌日も休めばいいのだが、休みが足りなくなるのと、長期休暇で仕事がたまる。で、翌日出勤。7泊8日の期間、暑い中子どもたちと駆け回り、夜は講師会で夜遅くまで話をする。今日の反省と明日の予定。全体的な問題から、個別班の動き。徹夜することもある。騒ぎまくって解散した翌日だから、日常生活に戻るのも大変。朝9時前には出勤。午前中はそれでも何とか耐えられる。昼ご飯食べたあとが、大変。眠いこと眠いこと。上司の横で瞼を閉じてしまう。ふっと顔を上げ、寝てませんよお~という意思表示。すぐ、顔が下がる。机におでこがご挨拶。またふっと顔を上げる。とっくに見られている。知らぬは自分だけ。

とにかく仕事にならなかった。何をしているのか、おぼろげに上司は知っている。さすが久し振りの出勤で仕事がたまっているが、お目こぼし。とにかく頭がガーンと重く、回転しない。定時退社して、夕ご飯食べたら、即布団へ。寝れば翌日には、元気回復。バリバリと仕事片付けていた、かな?

冬の学校は12月27日から。役所勤務で、年越しの大掃除をしたことがない。ついでに、1月4日、新年のご挨拶もしたことがない。年末の冬の学校と、新年のスキー教室に参加していた。まあ午前中帰れるので、有給休暇を使うのはもったいないが、仕方ない。

役所時代、この年間スケジュールを中心に回っていた。
仕事は? 机の前で事務仕事。小学校ではないが、廊下を走ることは禁止されていなかったので、走っていた。悠長に歩いてなんかいられなかった。上司に顔を合わせると、速度を落として足早になる。苦虫つぶした上司の顔がほころぶ。走っても叱られなかった。

1月 20, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年1月 7日 (日)

ペイペイが一丁前の仕事 自分史

役所とは怖ろしいところ。どんな新人でも一人前の仕事を割り当てられる。経験を積んでから然るべき責任の仕事をするものと高を括っていた。

配属先の人たちの言い方が変だった。前任者がエリートですごい働きをしていた、と誰からもいわれた。額面通り、前任者のエリート振りを褒めていたのだろう、自分とは雲泥の差と意に介していなかった。仕事は簡単なマニュアル(手引き)があり、何をするのかの目安になる。前任者から新人研修が終わって配属になるまでは係長が引き継いでいたので、分からないことは係長に聞く。大半の許認可事務は、マニュアル通り事が進む。

ところが、仕事に慣れるにつれ、マニュアル通りにはいかないことを痛感する。建物の構造、地理、住民の要望など、願書にはないことを調べないと背景が分からない。部分的に似たような仕事をしている部署がほかにもある。その部署に伺いを立てたり、調整したり、それまでの経過などを調査したり。簡単に済むものと思っていたが、意外や奥が深い。住民の要望を願書という形で提出したのだから当然なのだろうが、背景が分からなかった。

中には、議員などを介した陳情もある。課長や係長に来るものもあれば、直接担当者の僕に訴えに来るものもある。文面だけでは計れない悩みがある。許認可の範囲内で問題ないものはできるだけ早めに事務処理を進めれば済むが、簡単に許認可できないもの、範囲内かどうかはっきりしないもの、範囲外だがそれなりの事情があり、なんとかならないかという代物は、そうは問屋が卸さない。議員絡みはすべて範囲外だし、直接顔を出してお願いにくるものも、多くは境界線上。

ときに現場に出向く。揉め事になって収拾つかなくなっているケース。許認可をお願いする人、反対する人、地元で仲介の労を執っている人などが立ち会う。すべて僕より年上。人生経験豊富な年配も多い。出向くのは担当の僕のみ。多くは路上で立ち話をしながら、これまでの経過や規則の話。一方、無理を承知で何とかお願い……という人には、電話などと違って対面すると、厳しくもいえなくなる。もちろん人情にほだされても、勝手なことは絶対に言えない。担当者であろうと、OKらしき返事をすると、役所がOKしたと解釈され、回りに広がる。これに不平を持つ人から上司に問い合わせが来る。何を言ったかと問われ、ときに叱責される。

半人前の新人が、人生ベテラン、紛争調定のプロなどを相手に立ち回れるわけがない。ときは福祉行政を叫ばれる1970年代。規則規則と無下に断るわけにいかない。お役所仕事と指弾されるのは避けたい。人生経験未熟で、右も左もよく分からないものにとって、配属先の仕事は予想外の重荷だった。前任者がよくやったという回りの声は、実はこのポストが大変なのだということも言っていた。それを実感したのはだいぶあと。

課内に僕の仕事に関連する人はおらず、上司と相談して進めるしかなかった。新人を配属するような仕事ではない。調整するたびに、人生の機微を教えてもらったようなものだった。

1月 7, 2007 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年12月24日 (日)

お金がない役所デビュー 自分史

東大教研の第1回「春の学校」で3月27~31日までバイトして4月1日役所に出勤。大学中退で新しい出発。前日まで子どもたちとワイワイ騒いで、夜は講師会で朝方まで議論したりしているから睡眠不足。9時に役所に着くことになっていた。さすがに緊張していたが、疲れも堪っていたのだろう。目覚まし時計を無視して寝てしまった。気が付いたら、もう時間がない。慌てておニューの背広に着替え、アパートを出た。初日から遅刻はさすがにまずいと走った。電車の中でも走りたい気分。最寄りの駅について役所にダッシュ。

何とかギリギリで間に合った。1分前ぐらい。30人ぐらいすでに待っていた。5分ぐらいしたら、若い女性が悠然と入ってきた。この子、確か歩道をのんびり歩いていた。走って追い抜いたはず。何と大胆な子。遅刻して当然という感じだった。

初日は式があり、翌日からの研修などの説明があって解散したはず。2週間ほどは研修所通い。実際の仕事はまだ先。ただ規則正しい生活が始まった。新聞配達以来、自堕落な学生生活を送っていたから、毎日通勤電車にギュー詰めになり、朝から晩まで机に座っているのは、ちょっと苦痛だった。でもこれも仕事。

困ったのは、毎日昼ご飯を食べること。お金がない。バイトして少しは貯めていたが、毎日規則正しくお金が出ていく。最初のうちは、何とかなっていたが、5月の給料日まで持つかどうか心配だった。親不孝者が勝手に大学中退で就職したのだから、せめて初給料ぐらい渡さなくちゃと、4月の給料袋、封も切らずそのまま現金書留で送ってしまった。手元にはバイト代ぐらいしかないのに、見栄だけは一人前。5月15日の給料日が待ち遠しかった。

就職したのだから、いろいろと付き合いがあるってこと、まったく知らなかった。新人歓迎の飲み会や、同期だけの飲み会など、お金のかかることが多い。始めだから参加しないわけにいかない。お金が出ていく。お昼も食べないわけにいかない。誘われれば、お茶だってする。貧乏学生だったので、あまりお金を掛けない生活をしていたから、最初の数ヶ月は特に金欠で苦しかった。学生当時、月3万で生活していたから、役人になっても3万でやれるはずと、給料日には3万を手元に残し、残りを現金書留で親に送った。送ると決めた以上、送らないと、もう仕事やめたのかと心配掛けるから、給料日のお昼には郵便局に。

学生生活と同じように生活できるだろう、と安易だった。学生のときより自由になるお金がない。知らなかったが定期代もかかる。月々最低かかるお金が断然違う。本当は親への仕送りを減らしたい一心だったが、学費を出してもらって、勝手にやめるわけだから、せめてもの罪滅ぼしと我慢した。着るものも買えず、買ってもらった背広を取っ替え引っ替え毎日着ていた。とても役人とは思えない。貧乏には慣れていたが、かなり金欠には苦しんだ。独身貴族という言葉は、僕にはなかった。

12月 24, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 9日 (土)

1足の靴下 自分史

あなたは、ご存じですか? 子どもの頃、裸足で靴履いていたのを? いまじゃ、考えられませんよね。何をどういう回路で思い出したのか、冬の寒い風景が突然飛び込んできたのです。

小学6年のとき、お袋に頼んだのです。靴下買って! 1足でいいから。その年が極端に寒かったかは記憶にありません。ただ、ほかの子が靴下履いているのを羨ましげに見ていました。もっと小さい頃は、運動靴に裸足は年中当たり前でした。女の子は別にして、男はみんな履いていなかったでしょう、冬でも。きっと色気づいたのでしょうね、6年生ですから。ほかの子が履いていると、やっぱりみすぼらしいと引け目を感じていたのです。

やっぱり1足でした、買って貰えたのは。替えがないのです。でも贅沢ですよね。まったくのゼロから1ですから。朝、靴下履くと、気持ちが暖まりました。体が温かいということより、気持ちの問題でした。世間体を気にしていましたから。

6年生、それも冬ですから、帰りが遅く、5時過ぎのこともありました。帰ったら、靴下脱いで、お風呂場で洗い固く絞って、外に干したのです。何しろ、明日の靴下ないのですから。あなたは、ご存じですか、仙台の冬? 寒いんです。冬の夕方、靴下干したって乾くわけありませんよ。でも、室内で干すという、いま流の考え、思いつきませんでしたね。室内といっても、いまのように温かい訳じゃありません。外よりは温かいですけど。

朝学校へ行く前、縁側の物干し竿から靴下取り、コタツで乾かしたんです。凍っていることもありました。バカですよね、いまなら部屋の中に干した方がマシと思うのでしょうが……。温かくはなるのですが、しけっているんです。生暖かく、じめっとした肌触りのまま、靴下履きました。履けば、そのうち濡れているのも忘れてしまいます。乾いちゃうんですね。

その冬、確か、早めの大雪もあったから、仙台でも寒かったのでしょうか。とにかく1足の靴下のおかげで、精神的・肉体的に何とか越せました。でも、何人かは、裸足のままでした。1足の靴下、毎日履いて、ひと冬過ごしました。その後小学校卒業と同時に、靴下に恵まれる生活になったので、1足の靴下のこと、すっかり忘れていました。中学校に入り、バスケットクラブに入ったら、運動靴に靴下は当たり前。靴下は必需品となり、夏冬関係なく、履くことになったのです。靴下の喜びも消え失せてしまいました。

12月 9, 2006 自分史 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年12月 7日 (木)

市民警察に守られて熟睡 自分史

久し振りに終電間近まで酒飲んで帰宅。新左翼労働組合の元幹部からはじめてのお誘い。もちろん役人になり立てのペイペイの身。奢りでも説教があるかと怯えていた。自慢話が多かったものの、話し合わせていれば楽しく、時間もすぐ経ってしまった。かなり酔っぱらっており、いい気分。晩飯代と酒代が浮いた、と喜んで、アパートへ角を曲がった。

袋小路の狭い、大家の玄関先にパトカー。急に頭がシャッキ。何ごとかと、脇を抜けてアパートへ。部屋に入っても、しばらく電気を点けずに様子をさぐっていた。

トントン。廊下を歩く音もなく、部屋の扉を叩く音。無視しようか、どうしよう。開けてみる。XXXさんですか。はい。ちょっといいですか。こんな遅くにですか。そこの車まで。ほかの人や大家に、話し声聞かれるのも嫌だから、ついて行く。パトカーの後部座席、中へどうぞ。えっ、しょっ引かれるの? 何もしていないよ。やばい! でも呼び出した私服警官は、乗れと催促する。入ると、奥に私服がもう一人。呼び出した警官も乗ってきて、サンドイッチ。もう逃げられない。

実は、今晩内ゲバの対象になっていると情報が入って、警備しています。何よ、それっ! と酔いも醒めた頭で考えを巡らすが、まったく思いつかない。どこからの情報ですか? それはいえませんが、確かな情報です。覚えはないですか? いえー、まったく。そうですか。明日朝までここで警備していますから、お休みください。15分ほどで解放。このまま警察に連れて行かれるかと、怯えていた。車から降りられないのでは……。
そのまま部屋に入り、やはり電気を点けないまま、布団を敷いて寝た。何があったのか。狙われるようなことはしていない。いつぞや親父が上京してきて内ゲバの対象だって騒いだのは、1年以上前。もう役所生活も馴染んだ善良な役人。役所でも実に大人しいはず。狙われるわけがない……。しばらく考えているうち、寝てしまった。

目覚ましで起きて、いつものように着替えて、役所役所と玄関を出たら、パトカーが止まっていた。思い出した! 守っていたのだ! でも無視して脇を抜ける。うまくかわせたと喜んでいたら、後ろから走ってくる私服。無事でしたか。我々もこれで解散します。あっ、はい。仕事があるので、失礼します。そそくさと、駅に向かった。すっかり忘れていたが、寝ずの番で守っていたのだ。やられるはずもないのだが、偉いもの。ただただ感心した。

後日、大家のところに行ったとき。この前、警察来たでしょう。XXXさんは、どうなのって聞かれたから、真面目な人ですよって返事しておいたわよ。どうしてあの人が狙われるか、不思議。生活態度もいいし、変ですね、と答えたのよ。ありがとうございます。

このときばかりは、大家対策の成功に喜んでいた。大家に目を付けられたら、アパート出るしかないと、よく掃除をして部屋をきれいにし、騒ぎもせず、ひとり本を読む生活。家賃の滞納はなし。おはようございます、の挨拶は必ず。それが奏功した。

12月 7, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月27日 (月)

内ゲバの巻き添え 自分史

学生運動も下火になり、あてどころなく彷徨い歩く日々。話題は過激派どうしの内ゲバ。凄惨を極めていた。知り合いにも狙われて病院送りになったものや、下半身不自由になったものがいた。町で偶然友人に会う。あいつが救急で病院入りしたって。退院したと思うけど、下宿変わったから連絡とれない……などとひそひそ話。お互い連絡先を教えない。僕などは下っ端のペイペイ。埒外と決め込んでいた。ただあまり活動していない友達がやられて新聞に出ていたときは、まずいかなと怯えていた。

1月末、春の学校の場所決めに、東大教研の人たちと1泊2日の房総旅行。勝山の近く。電話で了解を取っているので、現場や受け入れ体制などの確認と下調べ。民宿に泊まる。「東大」と名前が付いているからか、それとも民宿など始めてだからか、夕ご飯の豪勢な刺身に感激。貧乏学生が世間から好待遇で迎えられる喜びを味わっていた。さすが1泊2日のバイト代は出ないが、3食付き。教研に関わってから、社会の観方が変わってきていた。

翌日帰る途中、昼食のドライブインで所員が東京の事務所に電話。戻ってくると、開口一番、親父さんが上京したらしい、早く帰らないと、僕に声掛ける。事務所で留守番をしていた友人に、親父から電話が入り、僕を探して上京するという話。何かあったのか。一晩下宿空けたから、心配になったわけじゃない。電話の話では、仙台の警察からお呼びがかかったらしい。事情がよくわからない。とにかく、下宿に急ぐ。

夕方、暗くなった部屋。引き戸を開けると、電気も点けず1人座ったままの親父。昼飯のときに聞いた話は知らぬ振りして、あれっ、どうした? 警察から呼び出され、僕が内ゲバの対象になっている、という。お前、そんなことしているのか? 全然。なんでオレが?

警察の話では、内ゲバにあった人の住所録が過激派に渡ったらしい。その中に僕の名前があったようだ。捕まったその人がそんな内容を警察に話し、その住所録に載っていた人が何人か被害にあっているという。住所録にある人は危ない、と僕の実家に連絡が入った。その人の名前は? 教えてもらえなかった。でも、住所録に名前あるだけで、狙われるってことあるかな? 変な話だ! いや違うなら、いいんだけど……。

翌朝早く親父は、叔父の家に寄り、そのまま仙台へ帰った。きっと警察で厳しいこといわれたのだろう。でも、そんなこと、ひと言も口に出さなかった。少しは関わっているはず、と疑っていた。不肖の息子ゆえ、信じるしかなかったのだろう。

親父が出て行ったら、さっそくバッグに着替えと本を詰めて、下宿を出た。房総からの帰り、何人かに泊まりに行くからとお願いしていた。脛に傷持ち身。万が一狙われたら、下半身麻痺は必須。当時、逃げられないように下半身を狙うのが内ゲバの常道だった。ただ狙われるはずがない、と高を括っていた。

友達の下宿には、夕ご飯食べ、夜遅く訪ねる。1晩2晩なら気安くOKしても、何日もとはいかない。数人にお願いしたから、今日は東、明日は西、と護身用の鉄パイプ、バッグに入れて彷徨っていた。1週間もすると、さすがに精神的にきつくなる。先輩のアパートで、もういいんじゃないか、と戻る覚悟を決めた。僕が狙われるはずがない。このまま逃亡生活しても一人芝居のよう。なら、下宿でひっそりしている方がまし。翌日、下宿に戻る。スーパーで2週間分ぐらいの食料を買い込み、食い扶持だけは確保。夜は電気を点けず、懐中電灯で本を読む。その生活もさすがに1週間が限界。つい耐えきれず居直ることに。来るわけがない。袋小路の下宿。襲ってきても、逃げ場がないはず。

それからしばらくは、外に出ても尾行があるか、不審者はいるかと、キョロキョロしていた。

11月 27, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月18日 (土)

麻雀と謝りのバイト先  自分史

麻雀やる時間あるのなら、ほかのことでもやればいいのに、病みつきとは怖ろしい。その手の遊びといえば、トランプの大富豪。高校の学祭前の空き時間、教室に残って止むことなく続けた。クラスの半分以上はやっていた。
麻雀覚え立てばかりの仲間。電話して下宿に集まる。メンバーが1人、2人増えていく。知らない友達も連れ込んで教えながらやる。2番目の成績の人が抜ける2抜けで徹マン。

仲間の1人が錦糸町の運送会社で、夜勤ガードマンのバイトをやっていた。夜6時~朝8時まで。仮眠時間ありだが、割のいいバイト。帰りの遅い運転手さんが泊まることがあるが、ほとんど人はいない。仮眠室があり、麻雀卓があった。夜9時頃、呼び出される。メンツが揃うと、朝まで。目がショボショボになりながら通勤電車に乗って帰る。もちろん、バイト代もらうのは、バイトしている本人だけ。あとは、お付き合い。何とも不合理な話ながら、暇を持て余している友達は呼ばれるまま麻雀で過ごす。

この割のいいバイト、空きが出たので、僕もやった。この事務所の電話、本当はまずいのだが、かけ放題。夜8時を過ぎると、通話料金が安くなる。毎回仙台の家に電話。お袋が出る。大学やめて、就職する言い訳。何とかやめないで続けたら……。ウーン……。いつも1時間ぐらい。毎週ただ電話で謝っていた。だいぶ長くなったから……といつも切るが、お袋は納得しなかったはず。もったいない、と。納得させることなどできないのは、重々承知。だから、毎週電話していた。そのうち、諦めてきた。次の就職先が決まっている分、救われていた。少しは話が進むと思っていたが、気持ちの納めどころがないのだろう。嫌われても電話するだけが僕の気持ちと、かけ続けた。

11月 18, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年11月 9日 (木)

就職準備  自分史

公務員試験に合格したが、何も準備をしていなかった。年末冬の学校を終え、寝不足のまま夜行で友達と帰省。年末年始をのんびり過ぎしていた。正月2日、親父と弟が急かす。なに、なに、と問えど返事なし。とにかく付いていく。北仙台に近いホール。紳士服のセール。親父のもの買うのかと、二人に付き従っていたら、着てみろ、ときた。えっ、俺の?! 試着してズボン丈計って、2着。スリーシーズンなら、充分間に合いますよと店員さん。ワイシャツ数枚とネクタイ数本、弟探してきて、知らぬ間に会計している。いらないよ、オレ。か細い声は消えていく。

役人になるには、酒と麻雀を覚えなくちゃ。勝手に作った役人像。少々の学生運動と、少しばかり勉強しか知らない世間知らず。役所に入れば、学生運動と違って、酒断ることもできないはず。麻雀だって知らないと、お役人と付き合いできそうにない。酒飲める友人も少なければ、麻雀できる友もいない。まずい、世間知らずのままじゃ役所で付き合いに苦労する。堅物だとか、変人だとか。

さっそく友達を引き込みにかかる。学生運動衰退で時間を持て余している。何をしたら? と悩み多き時代だった。そこに早々と覚悟を決め、就職するぞおー、と酒の飲み方、特訓。酒乱の爺さんに嫌気した親父は、酒を飲まなかった。その息子もチャンスがあってもコーラを通した。新聞配達屋では断るのに困ったが、なら、コーラね、と優しかった。飲めば、結構強いなどと豪語。飲み始めは誰もが粋がるなんて知らなかった。貧乏学生の身、頻繁に酒飲むわけにはいかないが、飲んで付き合いできる、と分かっただけも嬉しかった。

困ったのが麻雀。4人揃わないと始まらない。麻雀やろうよ、と不謹慎に声掛けると、やろうかと、始まった。やり方も知らないもの同士、役も知らなければ点数計算もできない。とにかく本などで研究しながら少しずつ慣れる。どだい賭け事には興味がないから、お金は賭けない。賭けるのは、自分の名誉。下手なら、ぼろくそ、口汚く罵る。口数多いもの通し、くち三味線のオンパレード。下手は下手なりに、相手の手を読んで、当たるものかと出す。アタリーィ。えっ、またかい。なに、それ現物じゃない。おっと、勘弁。
とにかくヘボながら、4人少しずつ慣れてくる。ただ学生アパートでは、麻雀はうるさいと嫌われる。やる場所がない。もちろん、雀荘など行けない。

そこに降って湧いたバイト先。神は場所を用意していた。

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2006年10月29日 (日)

公務員試験合格 自分史

中途半端な身分。大学やめてはみたものの、相変わらず学生のよう。バイトもするし、勉強もする。もちろん仕送りもある。大学に通わないだけが違う学生生活。冬の学校の準備も手伝っていたが、毎日ではない。

そんな12月初旬、膨大な就職案内パンフに混じって、合格通知が届いた。開封すると、何人中何番と、成績が出ている。思わず、にやり。してやったり。よくぞ受かったもの。不得手の近代経済学や法律、勉強した甲斐があった。狭い部屋の中、ウロウロと動き回る。誰かに教えたい。でもアパートには喜びを分かち合える人がいない。仙台からの友人はすでに帰省。友達に電話でも……。でもすぐ教えたい。

誰かに喜んで欲しいと、行く当てもなく部屋を出た。昼時、友達がつかまる場所がない。やむなく東大教育研究所の事務所に顔を出す。いるのは一人。あとの3人は? まあいいか。受かったよ。フ~ン。相手もしてくれない。特に作業がある訳じゃないのに、顔出したのだから、胡散臭いとの表情ありあり。

しばらくして、公務員やめて、うちに入ったら。何ともお祝いになっていない。気まずいまま事務所をあとにした。

受かったら、正式に大学やめることにしていた。学費はすでに親に言って、後期分払っていないはず。これで、やめる口実ができた。面接で学生運動のことばかり問われたから、こりゃ落ちたな、と大学に戻る気になっていた。覚悟ができなかっただけ。思わず受かってしまうと、これまでの悩みがすべてパアー。とにかく親に迷惑掛けずに、東京でやっていける。
でも、大学中退で公務員なんかやっていけるのか。若干の不安。よしっ、それでは公務員になるための準備をしなくちゃ。何とも早手回し。

10月 29, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月19日 (木)

始まったばかりで破産寸前 自分史

毎週日曜日のサンデースクール。何とか各学年、少数ながら参加者があり、2学期12月まで続いた。毎回、子どもたちを送り、新宿東口の喫茶店・滝沢で反省会。講義の内容と子どもたちの反応など。さすが過激派学生だった所員4名。始めと最後はしっかり締める。ただ単に報告でないのがユニーク。ほかのクラスの子どもから暇なときに聞き込んだ話などもテーブルに載る。担任の子どもの様子だけでなく、各講義の内容や午後の集団ゲームなど、いろいろと話は前向き。

10月の最後の日曜日。2回目のバイト代。反省会の最後に出るはず。ところが、所員4人、僕らバイトの目のまで財布を出し合う。ない。悪いねえー、この通り。来週には集めて渡すから……。エッ! 出ないの? 財布を見せびらかされたのでは仕方ない。あとで聞いた話だが、夏の学校の参加者。親子合わせて20数名。大赤字。サンデースクールをやるお金もなかった。みんな所員の持ち出しや借金。僕らバイトは、首になった訳だから、経済的に厳しいってこと知ってはいたが、バイト代が出ないとは夢思わなかった。

翌週確かにもらったが、危うい経営に一抹の不安感が漂う。僕らバイトも仙台の高校の同級生。貧乏には変わりないが、学生ゆえ、それほど深刻に心配はしていなかった。どちらかというと、武士の商法よろしく、過激派学生の商売、うまくいくのか先行きが心配だった。

毎週付き合ううちに気心も知れてきたが、相変わらず不可思議な4人の集団。個性がぶつかり合って、何がどうなるのか分からない。ただ魅力的な人柄と、僕らとは違う発想に面白さを感じていた。

就職試験の結果待ちのものにとって、ひとときのことと思っていたが、つい入れ込みすぎてしまうのが悪い癖。12月末に冬の学校の企画から手弁当で絡むことになる。企画とは面白いもの。自分で新しく作り上げる。その準備を手伝う。まったくはじめてのこと。所員たちの怖ろしさは、物怖じしないこと。とにかく、知らない人、教育委員会、学校の先生など、出かけて話を付けてくる。一度、新潟・六日町に同行したことがある。地元の地理の先生に話しかけ、新潟の冬の生活を東京の子どもたちに話してもらうことなった。初めての人に大胆にお願いして協力を取り付ける。うまい! 人見知りの激しい僕にとって世界が広がる思いだった。

僕らの入れ込みは、冬の学校を成功させ、少しばかりのお金が残り、破産を免れ、新年を迎えることになる。

10月 19, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月13日 (金)

交通事故と市民警察

小学5年生の頃。母親に頼まれて、荒巻町まで買い物に一人で行った。いまなら徒歩で20分ちょっとの距離。小学生にとって、学区を離れて一人での買い物は、知らない遠い町に出かけるようなもの。不安と大丈夫という思いが交錯し、胸が高鳴っていた。

荒巻町の道路を渡ろうとした。いまなら片側一車線という幅だが、整備されていないのでそれほどの幅もない。当時、車はときどきしか通らない。馬車がゆっくり荷車を引いていたりする。どんな風にぶつかったかは、よく覚えていない。きっと田舎ものゆえ、車に気をつけず、道を渡ろうとしたのだろう。車にぶつけられた。交通事故。道の真ん中で倒れてしまった。しばらく立ち上がれなかった。偶然近くに交番があった。出てきた警官と見知らぬ大人に寄りかかりながら、交番の中に。陶器でできた小さい手洗いで、手から出た血を洗い、丸椅子に腰を降ろした。

車の動きをよく知らなかったのだろう、後ろから来たのに気が付かなかった。あたって血が出たのに動転。手についた血、重くジーンと痺れる足腰。狼狽えていた。警官はきっと運転手の取り調べをしたのだろう。おそらく大した事故じゃないと、無罪放免。しばらく休ませてもらって、家どこ? 若林。歩いて帰れる? うーん? ぶつかったことに心と体がバラバラ。座っているのがやっと。送ってあげよう!

車など乗った記憶がない。いわれるままに車に乗る。一人で来たことがない場所。車での帰り方なんか分からない。若林小学校まで行けば、学校前の井戸浜通りは通学路。が、そこまではどうしていいかわからない。こっちかな? あっちかな? とわけのわからないナビゲーター。結局、遠回りして刑務所を大きく回って、何とか家に入る細い道の前で降ろしてもらう。

あとで、気が付いたがパトカーに乗ったのだ。そんな喜びより、車からの景色が速く、見慣れない町に家に着けるかという不安でいっぱいだった。警官も道を知らなかった。

結構な人身事故だったはず、自分で立てなかったくらいだから。でも、交通事故として処理されなかった。そんな牧歌的な時代だった。
結局、買い物ができなかった。母親に話したが、車にぶつかるというイメージがつかない事態に、母親は何も咎めなかった。

10月 13, 2006 日記・コラム・つぶやき, 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月10日 (火)

子どもって好き? 自分史

子ども相手に講義したり遊んだりしていると、必ず尋ねられることがある。子どもが好きなんですか? 正直、この質問にはいい返事ができなかった。好きって訳じゃないんです、嫌いじゃないけど。何とアヤフヤ。

確かに子どもと遊んだりしているときは夢中。だから、楽しそうと見える。でも、子ども好きとは限らない。尋ねられるまで考えたことがなかった。ただ、子どもってワイワイとうるさいし、絡みつくようで、あまり好きになれなかった。

そんな漠然とした印象しかない子どもが目の前にいて、僕の話を聞く。一緒に遊ぶ。絡みついてくる。そのときは、何の違和感もなく対している。ベタベタとまとわりつくと、うまいこと逃げたりする。サンデースクールも中学担当だったから、講義ではそれほどヨイショする必要もない。でも、午後の時間は、学年の隔てがない。小学生とも気軽に遊ぶ。人数が少ないこともあるが、担任という意識はそれほどない。しかも「先生」とは呼ばせない。「先生」と呼ぶと、どこにいるの? と辺りを見回したり、名前があるでしょう、と答える。子どもに向かって僕らが名前を呼ぶときも呼び捨て。子どもに誰々ちゃん、誰々くん、などと呼ばず、呼び捨てにしている。だから、子どもが僕らを呼び捨てにしても当然。僕は、小さいときから親、友人、先生からちゃん付けされたことがない。呼び捨てが当たり前だった。子どもの関係でもそのまま。

この呼び捨てには、子どもも慣れるのが速い。教室だろうが、道歩いていようが、呼び捨てで話しかけてくる。ところが、親は大変。子どもが家で、担任やほかの講師を呼び捨てにしていると、先生でしょう! と叱ったりしている。親との面談で、この話は必ず出てくる。特に、3泊4日の冬の学校と春の学校、7泊8日の夏の学校が終わって、約2週間後の親子が集まる反省会では、この話題が出なかった試しがない。でも、呼び捨てって失礼よ、という母親の声は怒っていない。呼び捨てを含めた子どもと大人の関係には、良好なものを感じていたのだろう。ただ呼び捨ては、大人特に教えている人に対して失礼と諭しているんだろう。

子どもの目は、大人と同じように敏感。呼び捨ても含めてじゃれ合っていい関係なのか、そんな人柄なのかを見定めている。こちらはできるだけ近しい関係になるように働きかけているわけだから、面白い関係にはなる。そのような関係ができると、個人が見えてきて子どもと対していても面白い。ただ、これは大人側でも同じ。器用に子どもと接することができる大人もいれば、僕のように不器用なものもいる。

走り始めたばかりの東大教育研究所・サンデースクールでは、試行錯誤ながら新しいことをはじめていた。

10月 10, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 2日 (月)

ラジオ体操の是非  自分史

当時、1か月3万円でやり繰りしていたものにとって、「夏の学校」10日で10万円のバイトはバブルそのものだった。なくなって、大金の夢は失せた。
あとで聞いた話では、開催前に入金の大半を使い切り、帰りのバス代を払う金がない。、手伝いに来ていた同僚の金をかき集めて、何とかバス代を支払ったとのこと。まったく無計画な団体。金銭感覚もない。

ところが、諦めることなく、次の手を打っていた。9月から日曜日に小学生、中学生を集めたサンデースクール。世間とは違う観方から、知の面白さを楽しもうという企画。各学年のレベルに合わせ、学校では触れない知の広がりや深みを教えようというもの。カルチャーショックがテーマ。日曜日、昼食をはさんで午前中講義、午後レクレーションやお出かけ。

小学1年~中学まで、担任7人。うち、東大教育研究所の所員4名。残り3名バイトでスタート。やはり生徒は集まっていない。僕が担当した中学生は、確か3人くらい。多いクラスでも4~5人。全部で十数人。受験塾や補習塾ではない。毎回テキストを作り、講義し、最後にサンデースクール通信を出す。

どのように進めるか、合宿で詰めることになる。山梨県・清里のバンガローに1泊2日。喫茶店で長く粘って討論する、貧しい学生活動家のスタイルとは違う。行く途中、食料を買い込んで自炊。カレーライスを作り、片付けを終えてから討議。

とにかくジャンケン好き。何ごとにもジャンケン。一大場面になると緊張するタチの僕。どうしても負けることが多い。その上、この集団。ジャンケン始める前に、やたらくち三味線が入る。さっきは、最初グーだった。今度はパーを出すぞおー。牽制する。ここでプレッシャー受ける。もう勝てる気がしない。負ければ嫌でも平気でやるのが、この人たちのおかしさ。所員4人は5歳前後上なのに、先輩面しない。活動家の世界も年功序列があったが、その隔たりのなさに救われていた。

スケジュールより1時間近く遅れて、ミーティング開始。まず所員の一人から、今日と明日の進行説明。このあと、レジュメを元に総論討議。翌日、サンデースクールの具体的な動かし方の予定。翌日は、朝6時半起床、ラジオ体操 → 朝食……。おおよその説明が淀みなく終わった頃、もう一人の所員、ラジオ体操って何故やるの? 健康にいいじゃないか、目も覚めるし……。そんなのしたくない。所員同士の話。あれっ、事前に日程決まっているんじゃないの……と訝しげに二人を見る。

ラジオ体操なんて、やろうとするのは何故? みんなで起き出せるじゃないか。なら目覚ましつけて起きりゃいいだけだろう、なぜラジオ体操なんだ。健康にいいだろう。その発想は何だ? いっている意味がわからない。ラジオ体操の是非ではなく、ラジオ体操を持ち出した所員の考え方に迫っている。一方、売られた喧嘩は買う。君のそういういい加減な性格は何だ! おいおい、ラジオ体操やるやらないの話じゃないの。話についていけない。二人の話は、接点を見出せないまま、延々と続く。何が焦点か明確にならないので、ほかの人も口を挟めない。どこかで絡もうとほかの所員二人も臨戦態勢。バイト三人は焦点をつかめず、流れを捉まえるだけで精一杯。

途中休憩が入るが、再開。ラジオ体操を持ち出した個人的な背景から、ラジオ体操の社会的意味。一方、いい加減な生活態度から始まったものの観方。個人攻撃ではなく、お互いもっと生産的な議論にしようとする。ほかの人もいるから。でも、世の中の体制とラジオ体制の関係、個人的な資質とラジオ体操。まったく絡み合わない。永遠と続く議論は、夜半をとっくに過ぎている。とにかく、原理原則を語る。学生運動に疲れた身には、新鮮な議論。でも、ついていけない。この違和感のまま、朝5時を過ぎている。

もう寝ようか。締めたのは所長。訳の分からず頭が興奮したまま、布団に潜り込む。当然ラジオ体操はなくなった。ちょっとしたことを、世間で言う針小棒大に広げる。でもそこから得るものがある、と確信する態度。一方で、そんな態度胡散臭いと斜に構える。
この二様のあり方が共存する不思議な関係。これが、原則だけで突っ走る政治青年には、カルチャーショックだった。

10月 2, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月18日 (月)

1日1万、10日で10万  自分史

神は見捨ててはいなかった。大学やめようなんて、親不孝も甚だしい。しかもやること、決まっていない。ただアパートでブラブラしているだけ。そんなアホを見捨てていなかった、神様は。

6月頭だったか。友達から電話。夏休み、1日1万、10日で10万のバイトあるけど、やる? ヤバイ話? いや、子どもの面倒見るんだって。

事務所を訪ねた、文京区本郷。木造モルタルのビルらしき建物。古い。2階に上がる階段が急。ギシギシと鳴る。とにかく古い。4畳半ほどの部屋。こんなとこで商売するって、やばくないわけない。集まったバイトが6~7人。2人は高校時代の友人。それ以外は不明。

子ども集めのチラシが机に積まれている。有名小学校の帰宅時間に合わせて、チラシを配ることに。で、事務作業もある。お前がいいんじゃないって話で、チラシ配りから外され、事務の手伝いに。ほかのみんなは、車に乗って国立大学附属小学校へ。

開催されるのは、夏の学校。親子で参加。子ども5万、親5万。合わせて10万の参加費。50組で100人の参加計画。子どもの面倒見るのが学生バイト。10日で10万って、石油ショック前の1973年といったら大金。夏のバイトを断って、空けた。10万あれば、当分バイトしなくて済む。

何度かチラシ配りで集合がかかり、僕は事務作業に駆り出され、日当を貰う。徐々に完成が鈍り、やばさも薄まる。貧相な部屋なのに、金使いが粗い。机に向かって作業をしていると、腹減ったね、昼食べよう。で、出前の寿司。おいおい、寿司なんか、昼日中から食べるものじゃない。当時1000円の寿司。もちろん、おごり。うまい! 汚く狭い部屋だが、うまい寿司にありつけるなんて最高。一度や二度なら、気を使っているとも勘ぐれるが、違う。自分達が食べたいだけ。そこにバイトがいたから一緒って寸法。金銭感覚がわからない。

まったくの異文化。さらに、とにかく作業が進まない。仕事をしないといっても過言ではない。バイトがせっせと作業するので、進んでいるようなもの。これって仕事、やばい。設立者の4人が事務所に揃うこともない。1人はいつも忙しそうで、途中3時過ぎには帰る。仕事をろくにしない人、ときどき食ってかかる。必ず同じ所員。反撃するが、口論になっていない。バイトの身、黙って聞いている。ときどき発言を促され、勝手なこと言う。関係が浅いからいい加減。

何度か事務所に出かけ仕事したが、参加者が集まっている気配がない。案の定、7月初旬、参加者が少ないので、身内だけでやることに。100人の予定が20人強。バイト、首。やっぱり。でも、夏休みのバイトないと、飯が食えない。困った!
お払い箱の身。就職試験のこともあり、バイトしないで耐えることに。1次試験が終われば、塾の講師のバイトがあるから、それまで我慢。

一陣の風のように、1日1万のヤバイバイトは吹き飛んでいった。すっかり忘れて試験勉強していた8月末、突然の電話。また顔出して欲しい。何? サンデースクール! それっ、何?

9月 18, 2006 自分史 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月 9日 (土)

執拗な学生運動論議 2次面接試験

1次試験から約1か月後、通知が来た。合格、とりあえず第一関門クリア。次は、面接試験。美濃部都政だから、当時話題になっていたゴミ戦争や身障者対策などの自治問題が問われるはず。特に、江東区の夢の島のゴミ戦争は、マスコミでも大きく取り上げられていた。新聞読んだり、地方自治関係の本を漁って読んでみた。

友達の話。昨年の面接試験で、学生運動していた人が落ちたらしい。成績優秀だったのに。面接試験は、問題なければ大半が通る。学生運動活動家はまずダメ。何人かの活動家が落ちた。華々しい活動歴がある訳じゃないが、中退。どう考えても不自然。当然学生運動について聞かれるはず。困った。学生運動が間違っている訳じゃない。そう答えたら、受からないはず。でも、面接試験で学生運動のこと、詳しく問うはずがない。言い逃れできるはず。

面接会場の廊下。ほかの学生はリクルート姿。まずい、いつもの格好。汚れこそないが、背広なんて持ってない。そうか、リクルート服か。及び付かなかった。

面接を終えた学生が出てくる。どうだった? 何聞かれた? 友人たちが近寄る。ゴミ問題。で? 自治体ごとに清掃工場を作ったらって答えた。また、ほかの学生が出てきた。どう? 地方自治と国との関係は、だって。うまく答えられないよ、あんな話。まずいよ、落ちるんじゃないかな。静寂さの中に、面接を終えた学生の声、問いただす声が耳に入る。やっぱり、自治問題か。何とかなるかなぁー。

会場のドアを開ける。広い! 大教室のような部屋。耳が真っ赤になった。3人の面接官の前に、1つの椅子。同時に10組ぐらい面接している。こちらに投げる視線に、心臓はバクバク。4番へ、と声がかかり、テーブルに向かう。

書類を誰に? 中央の人に渡す。ほかの2人、僕の書類を引っ張り出す。顔を落としちゃダメ。目を見なくちゃ。真ん中の人を見る。3年生だね、大学どうするの? 予定通り。親が倒れて、生活が大変なので。4年生はほとんど授業出なくて済むので、何とか1年頑張ろうと……。できるだけハキハキとしなくちゃ。

君、学生運動、どう思う。右端の若手。えっ。さっそく来たか。ここで憶したら、落ちる。知らない振りもできない。多くの人から支持されていないのは、まずいのでしょう。すでに耳は真っ赤か。心臓のバクバク音が聞こえる。何故支持されていないの? 矢継ぎ早の質問。顔落としちゃダメ。主張がかけ離れているのでしょう。どこが? どういう風に? 若い人に顔を向けながら、話す。どんどん罠にはまっていく。まずい! 話題をずらさなくちゃ。

すでに予想から大幅に外れている。韓国の学生運動って、民衆から支持されています。じゃ、日本と韓国の学生運動って、どう違うの? 答えれば答えるほど、相手の思うつぼ。左端のお年寄り。まあまあ、そこまでは……。日本の学生運動って、どうなの? 右の面接官、しつこい。正しいところもあるとは思いますが……。どこが正しいの? ひるんじゃダメ。民主主義をはっきり主張しているところ、でしょうか。こんなこと、考えちゃいない! どんなとこ? えー、そんなの答えられないよぉー。うそ言ってるんだから。

真ん中の面接官、それでは、こんなところで。はい、ありがとうございました。ポッポした火照りのまま、すごすごと出口へ。挨拶してドアを開け、廊下に出る。もう何人のいない。順番があとの人も、だいぶ終わっている。長いこと面接していた。こりゃ、ダメだ。地方自治なんてひと言も出なかった。学生運動の話ばかり。しかもたっぷり時間オーバー。そそくさと駅に急いだ。ウソで誤魔化そうとしても、化けの皮を剥がされる。いたちごっこの面接。あの若い人されいなければ、何とかなったのに……。やっぱり、無理か。でも悔しい。就職の面接でなけりゃ、もっと話せるのに。落ちたか。ゼミの助教授の顔が浮かぶ。

9月 9, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月29日 (火)

無謀な公務員試験にチャレンジ 自分史

面接した出版社には悪かったが、採用というのにお断りしてしまった。気持ちが固まらない。就職に現実味がなかった。

なら、就職試験。受かって就職するのは、来年の4月。それまでには気持ちも固まるはず。でも、大学3年の身。中退して就職しようとしても、信用はない。なぜ中退なのか。しかも、できることって限られる。企業だって相手にしてくれるはずがない。実際、大半の就職試験の条件に、来年3月卒業見込みとある。それは、そう。中退なんて中途半端な身分を面倒見ようなどという、度胸の大きい企業なんかない。

就職試験を受けるにも難しさを感じてたころ、新聞を見ていたら、公務員採用試験が目に飛び込んできた。これっだ。公務員なら、卒業見込みだろうが、中退だろうが、試験さえ受かれば、採用するだろう。受かれば。よし、これに賭けてみよう。申し込み期限も迫っていた。年齢制限がある。たまたま一浪していたので、大学卒程度と短大卒程度の両方が受験できる。短大卒程度なら、少しはレベルも低いはず。ろくに調べもせず、願書を出してみた。

受かる気になっている。ろくに勉強をしているわけでもない。大学に残る言い訳。自分を納得させる、自分なりの勝手な言い訳。願書出してから調べてみた。大学中退だから、短大卒程度に該当すると思っていたら、何とこれまでの合格者はほとんど大学卒業者。何のことはない。大卒程度じゃヤバイと踏んだ大学生が受験する資格だった。

まずい、受からない。しかも受験科目が、大学の授業でも避けていた法律や経済などが多い。政治関係なら少しはわかるはず。でも、法律はまったくチンプンカンプン。憲法、行政法、民法……。確か、大学1年で受けた記憶はあるが、頭に入っていない。経済学。マルクス経済ならほんの少しだけ読んでみたが、ケインズ経済ばやりの近代経済学。言葉がなじまない上、頭に入らない学問。効率優先の経営学。労働者搾取の学問だ……。一方的な思い込みの激しい学問なしの学生。
試しに過去問題を買ってみた。まったくわからない。概念がわからないから、問題の主旨がわからない。何をどう答えていいのか不明。政治社会問題だけは、少しわかった。新聞読んでいたから。

受験まで2か月。1次試験は5肢択一試験と論述筆記。とにかく5肢択一ができないと……。見たこともない専門用語が並んだ法律と経済の基礎本を数冊買い込んだ。暑い夏。クーラーもない。とにかく勉強。嫌なもの、不得手なものを勉強するのって、一生懸命覚えた気でいても、ページは進まない。時間も進まない。すぐ飽きる。暑い。本と面比べ。8月末に、大江健三郎と井上光晴の上下2巻の小説が出た。我慢できず買ってしまい、読み込んでしまう。久し振りの受験勉強は、思うようにはかどらない。論文は、決めていた。試験官は大学の教授などのプロじゃない。論旨が起承転結になっていれば、問題ない。誤記などを避ければいい。でも漢字が多ければ、点数が高くなるはず。とにかく漢字を多く書くことに決めていた。これはぶっつけ本番でも何とかなる。知識のない専門学科をどうクリアするか。

試験が終わった。解けたかどうか、自信がなかった。よければ、2次試験=面接の通知が来る。ダメなら、覚悟を決めて、大学に残る。とにかくやるだけのことはやった。あとは天に預けた。

8月 29, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月14日 (月)

せっかちに突っ走った親父

正月外泊を許され、やっぱり家がいい、とコタツに入った親父。小柄で中肉の体は、見た目に痩せてはいない。もうすでに医者から言われた3ヶ月は過ぎていた。医者だって間違いはある。親父の頑張りようも大したものだ。このまま退院といけば、と願っていた。

新築の病院に移り、気分も一新、と見舞いに行った1月。休憩室で話をしていたら、たばこを吸い始める。たばこはダメって、医者がいっていたけど……。何もいわず、うまそうに吸う。これだけの気があれば、助かるはず。苦しくても吸いたいのだろう。言ってみるだけで、止められるとは鼻から諦めていた。
新しい病院の中を歩き回る。何とか自分の体を動かそうとしていた。よく見ると、だいぶ痩せた感じで線が細い。まずいと思いながらも、頭の中で打ち消していた。

頻繁に見舞いに行けば、容体が悪いと感づかれる。悪くないから、来なくてもいいとうそぶく親父。1ヶ月に1回の見舞いにしていた。仕事の関係で少しのびて、3月初旬。彼女と二人で見舞いに。いつものように病室で、どう? 何ともない。お袋からは悪いとは聞いていた。仙台の家で一泊して帰るつもりだった。何とか桜の季節まで、そして夏まで……。

早朝4時過ぎ、電話が鳴った。お袋は病院、わけわからず電話に出る。看護婦さんから。容体が急変したので、家族親族を呼んでください。動揺していた。何をすれば……。普段いない仙台の家。電話帳探して、姉、親父方の親戚、お袋方の親戚に電話。病院に駆けつける。個室に移されていた。お袋が声をかけ、姉貴が声をかけ……。でも、かける言葉が出ない。医者と看護婦が入り、しばらくして、少し回復したとのこと。親戚には、早朝ということもあり、帰宅してもらう。

ほとんど意識は戻っていない。ときどき、お袋や姉貴の声に応えているよう。看護婦が慌ただしく医者を呼びに出て行く。走って医者が入る。いたたまれず、廊下に出る。医者からひと言発せられた。聞き取れなかったが、姉貴が声あげていた。お袋は耐えている。正視できず、下向いたまま、泣くまい泣くまいと耐えていた。

何とも短い一生。58歳。せっかちな性格そのままに、突っ走ってしまった。息子の顔を見てからとは、頑張ったもの。余りに短い人生だった。

8月 14, 2006 心と体, 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月13日 (日)

生き急ぐ親父

退院後、驚異的な努力で仕事に復帰した親父。誰の目にも、外見はもとのままだった。ただ食後の服用を義務づけられていた抗ガン剤を、食後飲み、トイレで無理にもどしていた。服用をみんなが強制したのに、外見だけ従っていた。なぜ飲んだ薬をもどしていたのか、いまだにわからない。

自分の体は自分の力で治す、という強い思い込みがあったのだろう。薬で誤魔化したくない、という心境か。弱みを見せたくない、と自在にならない体を無理に動かしていた節がある。生き急いでいたような感じだった。

半年ほど休職したあと復職。定年退職まで約1年ほど勤めた。のんびりしていりゃいいんだと、しつこいくらいにいったのに、貧乏性。職業訓練所に入り、半年間、塗装工の訓練。この間、マラソンに挑戦したりと、自分に鞭打っている様子がありありで、痛々しかった。完走したよ、と突然いわれ、いつから走っていた? 毎日少しずつ土手を。
相変わらず食事を小分けにして複数回。薬と一緒に食べたものももどしていたから、体力がつくはずもない。訓練所を出て、塗装工として仕事に就いた。最初のうちは、新しい仕事に意気揚々。仕事、どう? スプレーがよくない。珍しく弱音を聞いた。シンナー混じりのスプレーは、体を蝕んでいたかもしれない。2~3ヶ月で、仕事ができなくなる。癌が進行してしまった。

この頃も迷惑をかけっぱなしの息子。フラフラしていた。少なくとも親父には心配で仕方がなかったはず。心配性でせっかちな親父が、だいぶ我慢していた。このストレスも癌を進行させたのだろう。どう? と聞いても、なに、たいしたことはない、ばかり。お袋によれば、苦しそうにしていることもあるが、気を使わせるだろうと、表だって何もいわない。抗ガン剤さえ飲んでくれれば、と思うが、いまだ癌とはいっていないので、強制する理由に欠ける。うすうすは気づいていたらしい。

6月、再入院。今度は遠い大学病院ではなく、近い病院。さっそく、病院に駆けつけた。親父の顔より、まず主治医にと、アポもとらず、医者のところへ。主治医の話では、あと3ヶ月はないだろうとのこと。あまりのことに、何とかならないの? と何度も問い直した。ほかに言葉がない。再手術は? 体力がもたないでしょう。では? 抗ガン剤治療です。ほかに手だてはないの? 返事がない。

どんな顔を作ればと思い悩みながら、親父の病室へ。どう? たいしたことない。少し痩せていた。先生に会ったか? いや、これから行ってみる。隠してはいるが、顔や仕草に出ているはず。病室でいつもの大声を出すわけにもいかず、元気に見舞いに来た風を装えず、余計感づかれてしまう。しばらく側にいたが、気軽に声を変えられず、また来るよ、と去る。駅まで送るというお袋と歩きながら、医者からの話を伝える。さすがに3ヶ月とはいえず、1年は無理かもと言葉を濁した。俯きながら歩くお袋は、覚悟ができていたのかもしれない。多くを語らず、ただ聞いていた。普段なら掛け合い漫才のように、親子で話すのだが……。

東京に戻って、いろいろと調べた。末期癌に藁をもすがるつもりで、丸山ワクチンを申し出た。1ヶ月に1回、仙台に運ぶ。主治医は、抗ガン剤をやめるし、効果があるとは思えないと反対したが、何とかお願いした。医者はレポートも書かなくてはいけないので、仕事が増えるのだろう。医者の抗ガン剤治療だけでは、歯がゆかった。何度も何度も、もっと早く手を打てば……と悔いていた。親父任せにしたのが、いけなかった。でも、薬を服用しないのだから、手の出しようもない。元気だと答える姿を信じていた。

8月 13, 2006 心と体, 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月12日 (土)

胃ガン全摘

ソフトバンクの王監督が胃ガンで全摘した。回復が早いというニュース、人ごとながら嬉しい。最新の手術は、腹切りしないで、2個所をちょっと切るだけとニュースの解説。すごい技術進歩だ。

親父が胃ガンで全摘したのは、29年も前。親父、53歳。健康診断で変ということで、11月末急遽町の病院に入院した。医者は、胃潰瘍と告げていた。さっそく病院に駆けつけた。医者にこっそり会うと、精密検査をしたが、胃ガンの可能性がある。大学病院に紹介するので、もう一度診断してもらうが、胃ガンの可能性ありとのこと。若いので進行が早い、といわれた。

当時、胃ガンと聞いたら、死、を意味するほどの怖ろしさ。特に若いので、確率が高くなる。ノホホンと東京暮らしの日々にショックが走る。でも何ができるというわけではない。大学病院のベッド待ち。1週間ほどで、転院。主治医から、さっそく手術の日程を聞かされる。入院して10日も経っていなかったはず。医者も緊急と急いだらしい。健康診断まで特に何が悪いということがなかった。

知り合いの看護婦さん、数人に長電話。いろいろと尋ねるが、ショックが激しかった。5年持つ確率が何パーセントだと聞かされ、何をしていいのか、オロオロ。

手術の前日、病院に見舞いに。親父には胃潰瘍で通していた。笑って、ちょっと取るだけだから、大丈夫といっていた。医者も、開けてみないとわからないが、3分の1くらいの摘出手術で済むだろうという話だった。当日、2時間もかからないだろうというのに、長いこと待たされた。6時間以上、経ってやっと戻ってきた親父は眠っている。お袋と二人で、主治医の部屋に。ホルモン漬けされた大きい透明容器に臓器が入っている部屋。座った横のテーブルに、きれいな色した鶏肉のようなものがあった。親父の胃。人間の臓器って、ニワトリの肉と同じなんだと驚いた。開けて見たら、不安だったので、全摘しました。エッ、ご飯食べられるの? どうなるの? 食道と十二指腸をつないだから、食べられますが、量を食べられません。小分けにして何度も食事を摂るように。で、転移は? 不安な部分を取ったので、大丈夫でしょう。全摘ですか!

病室に戻って、一晩付き添うことに。とにかく、これからは良くなるだけ。ただ今日明日は、術後の大変。付き添いが必要とのこと。姉と相談して、二人で分担。連日の看病と泊まりで、疲れ気味のお袋をいったん家に帰した。ピンクのきれいな鶏肉が頭から離れなかった。喉が渇くらしく、ガーゼに含ませた水を唇に付けたり、親父の合図で小便を取り替えたり……。すべて初めてのこと。看護婦さんに聞いたり、親戚の助言を受けたり、見よう見まねで付き添った。

正月に1泊だけ帰宅を許された親父。小柄な体が、さらに小さくなっていた。健気と頑固が取り柄の親父は、それでも家が安心なのか、苦笑いを浮かべ、餅に挑戦しようとしたりした。全摘したことは、親父には伝えていた。

8月 12, 2006 日記・コラム・つぶやき, 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月10日 (木)

抜け殻の就職活動  自分史

あなたなら見抜いていたでしょうね。僕の根性曲がりを。何か理由が欲しかったのです。大学を散々批判し、産学協同路線を口汚くののしり、学の独立に絶望していた早とちりものが、大学に残るわけを。そんなのあるわけは、ありません。あなたなら、潔くご免なさいして学問の道に入りなさいって勧めたでしょう。学問の道に入ったからって、精神を資本や大学に売るわけではないのだからと。

青臭い精神主義と一本気な根性主義一辺倒の学生にとって、ゼミは何とも歯がゆいものでした。かといって探求すべきものが具体的にあったわけではないのです。密かにゼミに残って、そのまま大学院。そして学究生活へという、とてつもなく長い道を歩むには、根性が足りなかったのでしょう。短気な性格がこれに輪をかけたのです。

ゼミを辞めると同時に大学を辞めることも決断したわけです。では、何をするか。これが大問題でした。貧しい生活を切り詰めて仕送りしてくれた親。将来を期待して楽しみにしていた親がいます。大学辞めるからといって、ブラブラしているわけにはいきません。方向も定まっていませんが、市井の評論家にでもなろうか、いや無理だろう、そんな自信がまったくない。じゃ何する?

方向性が定まらないのなら、親に言い訳できることをしないとまずいでしょう。仕送りをもらったり、迷惑をかけたりはできない。そこで、まず飯の食い扶持を何とかしよう、と外堀から考えたわけです。食っていければ、そのうちやりたいことも方向性も出てくるだろう。とりあえず、親にゴメンという言い訳を。

情けない話です。自分を追い詰め、就職活動に踏み出してみました。新聞に載っていた編集者募集。さっそく出かけました。暑い7月の初旬ころでした。新保町にあるその出版社。やっと探したら、間口半間の小さい出版社でした。机が2、3つ並んだ事務所。机の上は書類や本が散らばっており、面接に来た僕の座る場所もありませんでした。社長から会社の方針や出版への考え方を聞きました。商売の仕方があると、はじめて知りました。出したいけど売れない本と、売れるけど余り出したくない本を巧に使い分けながら出版していく。なるほど、零細出版会社のしたたかな根性を見せられました。

面接が終わり、就職という現実に直面させられました。意気込んで面接したわけでもなく、ただ親への言い訳だけでは、就職の現実はあまりにリアルでした。夢などありませんでしたが、まだ拘るものもあったのでしょう。なら、賭けてみよう。就職か大学に残るか。何ともいい加減なものです。親への言い訳といいながら、自分のだらしなさを棚に上げていたのです。やはり学問研究が頭にありました。次にチャレンジしたのは、就職試験です。勉強などしていない身にとって、またまた言い訳作りです。

8月 10, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月30日 (日)

学究生活or無展望? 賭け  自分史

勢いだけで突っ走り、決定的な知識不足を痛感。引き籠もりの生活に突入していた大学2年。長く続くことはなかった。目標も見えない不確かな存在にとって、せっかちな性格が頭を持ち上げるのは必然。宅浪時代なら、大学受験を目標に1年の引き籠もりも何とかクリアできたが、何をするか、何ができるかを描こうとしても、立つ行かない引き籠もり。

決断を迫られるゼミの選択。就職ゼミが圧倒的多数の中、一縷の望みを託して政治哲学ゼミを目指す。政治に思想不足や哲学なしを嘆くものにとって、政治哲学、政治思想の探求は新鮮なものに映るはずだった。

引き籠もって読んでいた本も、思想関係のものが多かった。日本思想のブームでもあった。民俗学、東洋思想、西洋思想と、探りを入れ、本を目にする。でも元来が、怠慢な性格。わかった気になっている天狗。よくわからず、ただ字面を追いかけているだけ。著名な思想家を追いかけても、理解できないまま、読んでいる自分に焦り、呆れる。形だけ追いかける、典型的なミーハー。うまくいくわけがない。

ただ学問研究も選択肢かと、うすうす検討のネタにしていた。学問、特に産学協同を批判して止まないものにとって、背信行為のようなもの。上滑りな知識だけでは、学問などできない。学問体系から壊さなくては、と気概を込めても、徒弟制度のような大学からの学問体系には立ちゆきそうにない。

ゼミにはじめに2~3回出席しただけで、辞めることにした。テキストはヘーゲル『精神現象学』。ヘーゲル弁証法の神髄で、若きヘーゲルの苦闘を表した作品。ちょうど新しい翻訳が出た時期でもあった。翻訳者は忘れたが、この人の解説が素晴らしく、ヘーゲルの理解度の高さに感動し、ヘーゲルの論理に打ち震えていた。ほかの翻訳と読み比べても、解釈の深さが並大抵ではない。ゼミで1年間、これをテーマに研究するというので、期待していた。

はじめてみれば、解釈以下の内容。ヘーゲルの苦闘が何も伝わらない周辺事実を探ったり、言葉1つのみを取り上げて、世間の噂を並べたり。担当教官は、もっとスケールの大きい、近代西欧哲学史、政治哲学史の流れに位置付けていた。学部学生のみでは、こんなものだろう。

学問するなら、そんなあまちょろいことじゃまずい。痛烈な学問批判に、対応すらできない。本質的な学問体系や哲学、思想には、触れることもできない。

この焦りは、自分の知識のなさだけでなく、膨大な学問体系に立ち向かうことの大変さに起因していた。絶望的な営みを地道にこなす必要がある。しかも、世間の荒波に揉まれながら耐えていく精神力が必要。元気さと勢いだけでは進められない、絶望的な試みと映った。
学問に身を置く学究生活を渇望しつつ、持ち前のせっかち性が頭を持ち上げた。結果、ゼミを辞めることに。さらに、矢継ぎ早に決断することになる。

7月 30, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月18日 (火)

安穏とした日々  自分史

台所付きのアパート6畳間。生活が一変した。集会や学習会などの電話がない。親しい友人にしか電話番号を教えていないから当然。逃げまどう必要がない。当然ゆっくり部屋に居られる。気持ちの落ち着きが全然違う。好きなことができる。

1週間に1回、スーパーに買い出し。ジャガイモ、タマネギ、ニンジンの長持ち3点セット。これさえあれば、カレー、シチュー、肉じゃが、野菜炒め……、自分の手作り料理で凌げる。缶詰とご飯だけの食生活からおさらば。バラ肉や鶏肉、カレールー、シチュールー、トイレットペーパーなどの雑貨をまとめ買い。5食分のカレールー。具をたくさん入れたお手製のカレーで2日半過ごす。シチューも2日半。野菜炒めで1日。肉じゃがで1日。毎週この繰り返し。実に定期的で合理的な生活。食事時間もほとんど一定時間。カント的な生活。

1週間に1回は、本の買い出し。池袋に出て、大きい芳林堂書店で新刊本などを探す。足を伸ばして、立教大近くの古本屋兼過激派本屋へ。何冊かまとめ買いして、満ち足りた気持ちで重い本を抱えて帰宅。致命的だった知識不足を解消しようと本の虫に。

ときどき大学へ。大学から離れてしまったため、出席を取る授業やちょっと楽しみな授業以外は、見向きもしない。クラスの友人に会っても、立ち話程度で深入りしない。授業をサボる罪悪感も、このころすでに微塵もない。

ゆったり流れる時間。本が友達。語る言葉が少なくなり、ストイックな日々が続く。1週間に1日、2日、アルバイトの家庭教師か、塾の講師で子どもたちと話するのがまとまった会話。宅浪時代のようだった。学生運動から距離を置いたが、考え方自体は間違っていない。方法が違う? なぜ? 本を読んで解決する訳ではないが、新聞販売店ではまとまって本も読んでいない上っ滑り。痛感していた論理不足。

特に自分から誘うこともないので、友達からも連絡ない。毎日毎日がゆったりとストイック。生活のリズムを守っていたことだけが、自分を保つ救いだった。はじめて味わった「学生生活」。
1年弱続いたこの生活。せっかちな性格には、限度だった。

7月 18, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 9日 (日)

降って湧いてきた引っ越し費用 - 自分史

お金に縁のない貧乏学生。大家の2階でひもじい食生活が続くものと思っていた。5月の中頃、下駄箱に一通の手紙。見ると、建設省何々建設事務所。特にお呼びがかかるような役所でもない。文書を読んでも要領が得ないままほっぽり投げていた。

翌日大家のおばさん。読んだでしょう、先祖代々のこの土地明け渡さなくならないのよ、ひどいわね。なに、それ? と訝しげに続きを聞く。土地の半分が引っかかるかと半分だけ収用だといわれても、残った半分じゃ、家も建たない。半分の土地しか買い上げてくれない。本当にどうすればいいのかねえ。そうそう、あなたも引っ越しよ。遅くとも8月末には。

何、それっ。日頃大家に迷惑ばかりかけていたから、話を合わせていたが、まったく意味不明。そうですか、大変ですね。僕も困っちゃいますよ。口先だけはお調子者。慌てて部屋に戻り、怪文書を読んでみた。土地区画の図面がある。確かに大家の家の半分が、道路拡張に引っかかっている。建て壊しだ。僕の部屋は端なので区画外だ。でも大家の家が半分だけってことはない。じゃあどうなるの?

理解できたのは、説明会があるから出るように、8月末までに撤去しなさい、ということ。説明会に出てもお役所言葉、建設用語など、まったくわからない。どうも引っ越し費用を国が出すから出て行けってことがやっとわかった。迷惑のかけ放題で小さくなっていたから引っ越しは嬉しい。しかも補助が出る。でも貧乏学生。引っ越し費用を工面する方法はバイトしかない。親にせびるわけにもいかない。

全体説明が終わったあと、話を聞きに行った。引っ越しは絶対で、それ以外の選択肢はない。補助金は、部屋を下見して引っ越しにかかる費用を算出するのではっきりした額はいえない。ただ同じような部屋に移るだけの費用な出るという。大家さんがかわいそうだし反対したいが、娘さんたちにかなり嫌味を言われているのと、電話や訪問が続いて逃げまどうのも疲れていたので、引っ越しに応じることに。

部屋は4畳半。仙台から持ってきた机。小さい卓袱台。生協で買ったスチール製の本箱2つ。ファンシーケース1つ。部屋に入っても何もなく広い。テレビはあるが、ソニーのトランジスタテレビ。4インチぐらい。小さい卓袱台に載るくらい。押し入れに布団などがあるが、持ち物は少ない。
自己申告で引っ越し荷物を書く。少し余分に書いたはず。しばらくして担当官二人が部屋を見に来た。書かれた書類と部屋にあるものを見比べる。書かれた内容に比して荷物が少ないのが明瞭。特に問題もなく下見が終わり、しばらくして引っ越し費用を算出した書類が届いた。

翌日大家さんに会ったら、変よね、下の大学院生よりあなたの方が多いのよ。玄関口の3畳間の大学院生。部屋を覗いたことはないが、本が一杯であとは布団敷くだけ。僕の部屋は4畳半だから布団を敷いても充分に畳が見える。私のところなんか、建て替えるだけの金額も貰えない、借家住まいよ。先祖代々の土地明け渡して。

貰った金額18万いくら。1ヶ月3万で生活していた身。驚いた。引っ越しは小型トラックに運転手付きで、5千円。引っ越し先は6畳間で台所付き8500円。敷金などを払っても余る。親に十万返して、5万以上残る。小型冷蔵庫、ステレオなど欲しいもの買っても数万残った。1月に引っ越して正解だった。2月に引っ越すと、在住期間が短く、数万も出ないとのこと。怖ろしくラッキー。

引っ越しは仙台から弟を呼んで夏休みに。新しいアパートではやっと文化的な生活ができるようになった。これすべて、道路拡張工事のおかげ。こんな人生二度とないはず。
身分不相応の生活が慢心を生んだか。人生の転機を迎えつつあった。

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2006年6月30日 (金)

逃げまどう大学生活 自己史

4月、平穏な大学生活がスタートした。校内のバリケードもなくなり、何もなかったかのように新学年の授業がはじまる。一見平和。でも、下宿には毎日電話がかかる。勉強会、集会、サークル……。運動から離れたにもかかわらず、とにかくしつこい。

下宿は、大家さんの二階。電話は、大家さんの居間にある。長電話したくないが、はっきり断れない愚図ゆえ、ついつい相手の話を聞いてしまう。側に大家さんがいるわけだから、まずい話はできない。

何とか言い逃れして電話を置くと、大家さんの娘さんの文句が追いかけてくる。あんたの電話じゃないだから、さっさと用事済まして。ごもっとも。長いときなら30分以上、電話の前にいた。

大学に行けば見つかるかも、と尻込み。下宿では、電話で迷惑をかける。いくつかの必修科目と面白そうな授業に出る以外は、できるだけ大学と下宿から離れる。といっって行くところがある訳じゃない。二番館の映画を見たり、本屋で立ち読み。毎日続く訳じゃない。逃げ回っても仕方ないと、図書館に籠もったこともある。これも長続きしない。

頼んだ仕送り2万円。あと1万円をバイトで稼ぐ。実入りのいいのは、何といっても家庭教師。夕食まで付く。困ったことは、行き帰りに活動家たちと遭遇するかもしれない。そこで、会わないように遠回りする。時間がたっぷりあるとはいえ、コソコソ逃げ回るのは少し辛いもの。電車代もったいないから、あちこち歩き回った。おかげで東京の地理がわかった。

当時、3万円での学生生活は貧乏学生の部類。4畳半の下宿は、家賃6千円。光熱費などを入れて8千円程度。食費は1万円と決めた。1日300円。仙台から送ってもらった電気釜と米でご飯は何とかなる。炊事場などない。洗面所で米研いで、部屋で食べる。おかずは、サンマや鯖の缶詰。飲み物などない。ときどき外食。安くて量の多い定食屋や中華屋。

あるとき米もなくなり、パンでもとパン屋に入る。安くて量がある食パンを買う。学生さん? パンの耳あるけど、持って行く? とおかみさん。すぐ見破られる、貧相さ。エッ、ありがとうございます、ください。一斤の食パンより量の多いパンの耳もらって両手に提げて帰った。さすがに毎日とはいかなかったが、ときどき一斤のパンとパンの耳。冷蔵庫があるわけじゃないので、マーガリンなんか付けられない。ジャムは高い。ただただパンの耳を飲み物なしで食べていた。食べ物があるだけでマシ。

こんな貧乏な逃げまどう生活。運がいいもので転機がめぐってくる。

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2006年6月14日 (水)

長男の教育 - 自分史

仙台に出てきたとはいえ、水呑百姓の生活は体に滲みていた。親戚との軋轢は相当なものだったはず。しかも家族揃って飛び出したわけだから、親戚に会わせる顔を作らなければならない。かといって、両親が具体的にできることは、子どもの教育しかない。子どもを育てる環境を作るのが口実だったのだから。

でも、教育といって、尋常小学校を出ただけ。特に子どもを教育するような方針はない。だいぶ後で聞いた話だが、親父は東京に丁稚に出されていた。平井あたりに店があったようで、リヤカー引いて都心まで出向いていったようだ。総武線の高架から見た風景を懐かしんでいた。お袋は村の魚屋に養子に出された。二人とも口減らしなのだろう。でもお袋は、みんなが食えないときでも、店の魚が食えたと自慢していた。

田舎者ゆえ、教育は長男に向かう。姉のときはそんなこともなかったが、長男の僕が朝学校に行こうとすると、お勝手から必ずお袋が顔を出す。先生の言うことをよく聞くんだよ。お前は泣き虫だから、友達に負けるけど、勉強は頑張れ。小学1年で何もわからない子どもが、毎朝毎朝聞かされた。だから泣き虫になってしまった。すぐ泣くことになる。勉強はというと、これは無理。先生の話をまともに聞く態度ができない。落ち着きがないと通信簿にはいつも書いてある。でも毎日のこと。とにかく勉強することが至上命題になる。

長男の出世が、田舎の親戚や近所からの圧力を凌ぐ立つ瀬になる。でも宿題にしてもそうだが、親が見ないとわからないことがある。わからないでお袋に聞くと、先生がどういった? と聞き返される。といっても、覚えていないのだから辛い。何でもそうだが、先生がそういったのか、先生の言うことをよく聞け、ととにかく先生がすべて。躾けもそう。何でも先生預け。当時はどの家庭もそうだったのかもしれないが、高校に入って家族にも違いがあると実感してしまった。

敗戦から高度成長にさしかかる頃、貧しくも頑張って働いていた親父。それを支えて子どもの教育に一心になったお袋。子どもを平等に扱うなんて考えていなかった。とにかく長男だ。それが、家族の軋みを生む。

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2006年5月14日 (日)

おかあちゃん、おっぱい - 自分史

小学校は楽しかった。入学前に転居したこともあり、幼稚園に行かなかった。田舎ものの親には貧しさも手伝って、幼稚園が頭に入っていなかったようだ。小学1年生になって分かったことだが、クラスで幼稚園に行かなかったのはほんの数人。残りはみんな行っていた。入学前の午前中、遊ぶ友達がいなかった。入学したら、暇に持て余すことがなかった。遊ぶ相手がいる。とにかく嬉しかった。

当時紙芝居が流行っていた。自転車の荷台に木枠を載せ、町内を回っていた。確か10円(5円だったかも)で水飴もらって、自転車の横にかがんで見ていた。月光仮面とかやっていたのか、まったく記憶にない。紙芝居が終わり、次の場所に移る自転車にぞろぞろと従って行った。このおじさん、小学生相手に「おかあちゃん、おっぱい!」というのが口癖。その語り口がおかしく、みんなで真似していた。

1年生の4月の授業って、ほとんど遊びというか躾け。早々に運動会の練習で1日中体育。机の前でじっとしていることがない。校庭への出口に渡り廊下のような場所がある。担任の女の先生を囲み、みんなで日向ぼっこ。そこでやんちゃ坊主の僕、おかあちゃん、おっぱい! 赤ちゃん、甘えん坊などとはやし立てられながら、先生を独占。抱きかかえられ、甘えん坊していた。僕の気持ちは、紙芝居のおじさんの真似。受けたので、それ以来恥ずかし気もなく、おかあちゃん、おっぱい、を先生にやらかしていた。

きっと幼く見えただろう。体はクラスで2、3番目に大きいかったはず。そんな子どもをダッコする先生、重かっただろう。

秋、学芸会の役に選ばれ、4クラスの代表で芝居をすることになる。ほかのクラスから出てきた、小さくて可愛い女の子。練習中に、おかあちゃん、おっぱい、とやってしまった。練習にならない。合唱の代表に変わっていた。先生、きっと優しく変えてくれたのだろう。気にも留めていなかった。小学5年のとき、また芝居の役が回ってきた。誰も言わなかったが、1年の芝居駄目にしそうにしたのは自分と思い返して、今度はしっかりやろうと練習に励んだ。

可愛さのない、体だけ大きい1年生が、ひょうきんで、お調子者として登場した。そんな役柄が、以後の生き方を決めていたかもしれない。ピエロは、地縁・血縁の圧力をかわす巧妙な仮面だった。

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2006年4月30日 (日)

家族が背負った地縁血縁の狭間 - 自分史

田舎から夜逃げしたこと。それは、家=地縁血縁からの解放だった。一方、背負ったものも、地縁血縁の呪縛だった。

お爺さんの家から出たことが負い目になったのだろう。名誉挽回が親父お袋の想いとなった。親父は10年近くお爺さんの家に足を踏み入れたことがない。零細農家の田植えや稲刈りにはお袋が顔を出す。夏休みには子どもを連れて里帰り。でも泊まらない。孫の元気な顔を見せ、慌ただしく仙台に戻る。家を出たことの意味を知らない僕らは、通信簿を見ながら喜ぶお婆さんから小遣いを貰えるのを楽しみにしていた。

親戚や知人の目を気にするのは、田舎じゃ当たり前のこと。どんな話もすぐ筒抜け。噂は尾びれ背びれが付いて話が大きくなる。ちょっとした悪い話も、極悪非道の物語に変わってしまう。

田舎から飛び出したものにとって、日頃その目を気にしなくて済む。だが、家を出た分、見えない目を強烈に意識していた。仙台で立派にやっていることが至上命題になる。無惨に田舎に戻ることは許されない。爺さんの家出たから、こんなザマになった、などと言われたくない。その想いは、家族の生活、とりわけ子どもに向かった。財産があるわけでもない、貧しい工場勤めの身。もちろん学問があるわけでもない。「子どもの教育のため」は、当然子どもへの期待となる。

地縁血縁を意識しだしたのは高校2年のころ。それまで親父お袋の子どもに向ける目は、他の親と同じなのだろうと気にしていなかった。まして家を飛び出したことの意味に及んだのは、さらにずっとあと。そのころの地縁血縁という言葉には、単に息苦しさがあるだけだった。親のバイアスがかかっていたことに思い至らなかった。

親父がお爺さんと復縁したのは、中学2年のころ。爺さん入院するから毎日見舞いに行ってこい、と声がかかった。あれっ親父、お爺さんのこと、知っているんだ。タブー視されていたお爺さんの話が親父の口から出たとき、正直どのようにお爺さんに対していいかわからなかった。田舎に行ったときのようにお爺さんと話すればいいのか、親父のこと気遣ってヨソヨソした方がいいのか。

目が白濁したお爺さんの入院の手配をしたのは親父。家に近い眼科を探していた。いつそんな関係になったかわからなかったが、お婆さんがよく仙台の家に顔出していた。親父も説得に田舎に行っていたのだろう。入院の日、先にお袋が帰り、残されたお爺さん、親父、僕。男だけの三世代。親父はひと言も話さず離れている。目の病気のことよく知らない僕は、手術したら直るよ、なんて訳わからずその場を取り繕っていた。じゃ毎日来るからねと病室出たあとも、親父は相変わらず話もしない。当然わだかまりが消えた訳じゃないはず。

親父の思いに至らない子ども時代、ただただ遊び呆けていた。お調子者の誕生だ。やたら人目を気にするピエロの内面は、やんちゃな子ども時代に培われた。そして、地縁血縁が足かせとして登場する。

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2006年4月28日 (金)

夜逃げ、そして仙台へ - 自分史

月明かりに2本の線路が遠くまで続く。線路脇の林から黒い闇が迫ってくるようで怖かった。単線の仙山線。生まれたばかり赤ん坊の弟を背負い、左手に姉、右手に僕。黙々と歩くお袋、姉、僕。声を出してはまずい。ただ線路を歩くだけ。石が敷き詰められた線路は歩きづらかった。

それは、僕が5歳のとき。山形に近い爺さんの家を、僕ら家族5人は出た。正確には親父は仙台で待っており、夜中出たのは4人。このときの印象は、あとからお袋から聞き出した切れ切れの話をもとに、自分の原体験と重ねて構成したものだ。あまり語りがたらないお袋が、それでも口に出した断片。

その日の昼。藁葺きのお爺さんの家の庭で遊んでいた。突然トラックが入ってきた。トラックが珍しくて近寄ると、親父ともう一人が出てきた。縁側から家の中に入り、小さいタンスと荷物を運び出し、トラックに積む。お袋も手伝う。何ごとかと好奇心いっぱいで、お袋に声を掛ける。ろくな返事がない。お袋の緊張が伝わる。そそくさと荷物積んだ親父たち、トラックに乗る。で、そのまま慌ただしく出て行ってしまった。「誰にも言うんじゃない」と、顔が引きつったお袋の声。何が起こったのか、何を喋ってはいけないのかわからず、ただウン。
その夜。お爺さんとお婆さんが寝付いてから、起こされ、線路を仙台方面に向かった。

その晩は、お袋の実家に泊まり、翌朝仙台に着いたのだ、と切れ切れの記憶をつなぎ合わせている。4人で線路を歩いている姿、昼間のトラックの慌ただしい動きは、家族のタブーの前につなぎ合わされないまま焼き付いていた。

親父は水呑百姓の次男坊。長男が戦死したため、農家の跡取りとしてお爺さんの家にいた。現金稼ぎに仙台の工場に働きに出ていた。お爺さんは酒癖が悪かったらしい。そんな場面が記憶に残っていないが、酒飲んで家に帰ると乱暴狼藉だったようだ。酒が入らない日中は静かに畑仕事をしていたらしい。毎日、近くの親戚や自分の家で酒を飲んで暴れていた。

数年前、姉の家に姉弟3人と姉の旦那さんが集まったとき、このときの話が出た。生まれたての弟はまったく知らなかった。姉の旦那が親父に聞いたことがあった、なぜ家を出たのかって。子どもの教育のためって、答えたらしい。だから親父を悪く言うんじゃないって、擁護していた。悪いも何もこれがわが家族の出立。親父の答え、姉も知らなかったようだ。
家族のタブーに少し風穴が開いたとき、すでに50を過ぎていた。

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2006年4月19日 (水)

連合赤軍・あさま山荘事件、そして離脱 - 自分史

気:1月中頃には、新聞配達止めたんだよね。やっぱり続かなかったね。
元:そういうなよ。意志薄弱なのは昔から。これで学生運動一辺倒と思った矢先、起きたんだね、あの事件。

気:年明けからマスコミじゃ、連合赤軍のリンチ殺人で連日大騒ぎ。それに影響受けたってわけ?
元:新聞読んでいる分には、過激派のすることって我関せずでいられた。連合赤軍って、水と油のような赤軍と京浜安保共闘の連合。合わないだろうなんて、よそ様でいられた。ただ、「総括」って言葉、一人歩きして、リンチと同義になってしまった。もっと前向きな展望のある言葉だったのに。
学内はバリケードで、試験はレポートだから、学生は少ない。それにしても学生少ないなあと、学館に入った。食堂のテレビの前、異常な雰囲気。みんな、テレビに釘付け。またリンチ殺人かと通り過ぎた。

気:あさま山荘に逃げ込んだ連合赤軍と、それを囲んだ警察の対峙。昼日中からワイドショーでやっていたね。でも、無視したんだろう。
元:いや、気になって戻ってきて、見た。生映像って怖い。でかいクレーン、銃撃の音。牟田さんは無事か、と叫ぶアナウンサーの声。テレビに見入っていた。誰も席を立とうとしない。ショックだった。
次々と場面を変えながら、映像が追いかける。テレビカメラがそのまま僕の視線になり、彼らを追い詰める側に立ってしまう。まるでその場にいるよう。ほとんど何も考えずに見ていた。

気:凄まじかったね、映画を超えていたよ。
元:捕まったところで、僕はテレビから離れ、ブラブラと大学を出た。自分のやっている成れの果てがあれかって、悲しかった。革命叫んでいたけど、あの映像は焼き付いた。
学生もいないこともあり、暇を持て余し、ただただボーとしていた。やろうとしていることは間違っていない。でも……

気:そうか、それで運動から逃亡かい。
元:そういう言い方、ないんじゃない?
バリケードの中にいるのも寂しいし、仙台に帰った。考えること、たくさんあった。でもひとつとしてまとまらない。ただ、続けるのが苦しくなった。新聞配達止めて1日を強制するものがなくなり、かといって自分で強いる気力が失せていた。そんなとき、郷里・家族に戻ったわけ。いやだったその場所に。

気:で、どうしたの? 4月の新学期には戻ったんだろう。
元:バリケードはきれいに片付いていた。別のやり方でバリケードに戻ろうかな、なんて調子のいいこと考えていたのに残念。これが追い打ちだった。まあ勝手に離れたわけだから、文句も言えないけど。
仲間からの電話攻勢。集会出るとも約束できず、かといって下宿にもおれず、ぶらぶらしていた。誰にも会いたくなかった。大学出ても人のいる場を避けていた。

気:結局、運動から離れたわけでしょう。で、考え方、変わったわけ?
元:変わったわけじゃないと思うけど、日和ったことに変わりない。何をするでもなく、日々が過ぎた。嫌になっていた。

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2006年4月11日 (火)

帰郷、さらば勤労学生 - 自分史

12月ともなると、学生運動も冬休み。新聞配達の休みは今と違って、ゴールデンウィークと正月にそれぞれ1日のみ。正月2日の休み、帰仙することに。元旦の朝刊は、とにかくかさばる。将来の夢描いた特集号がたっぷり。チラシの量も半端ではない。何とか配り終え雑煮を食べたら、さっそく上野駅へ。仙台まで特急で6時間、急行なら8時間。勤労学生の身、お金はある。で特急に乗る。

仙台駅から市電に乗り換え、広瀬橋で下車。片側2車線の広い道路、片側の歩道を家へ。向こう側の歩道に見覚えのあるおじさん。このあたりは僕の縄張り。誰だったかな、友達のお父さんかな。知らない振りしておこう。道路を渡って近づいてくる。えっ、正面に立つ。帰ってきたのか、と聞き覚えのある声。爺さんとこ、行ってくるから。ウー、親父だった。頷くだけ。親父、それだけ言って行ってしまう。全然気が付かなかった、あんな顔してたな。

親父の顔、別に変わった訳ではない。忘れてしまっただけ。親不孝限りなし。上京からの9ヵ月の激変。親父の顔まで忘れてしまった。ショック。家までの数分、急に不安が募る。両親上京したのが4月末。仲間に顔合わせろと催促されるのを振り切って、逃げるように新聞販売店を出て大学へ。授業を終え教室から出たら、僕の名前を呼ぶ声。見ると、お袋。慌てて学生に混じって雑踏の中へ。

心臓が高鳴る。親父、近道して戻って待っているかも。何て言う? 恐る恐る玄関開ける。お袋が笑顔で立っていた。親父が電話して知らせたらしい。居間に座り、ひと呼吸。小さいときからの座る場所。馴染んだ風景。休みか? いつ戻る? と矢継ぎ早のお袋の声。ウン、ウンと頷くだけ。

夜戻った親父とお袋に、新聞配達やめたいと持ちかける。毎月貯めた月給で、朝日新聞社に立て替えてもらった入学金の返金、何とかなるはず。月々の仕送りを頼む。貧乏な家、余裕あるはずもない。でも何とか工面してもらう。一方的な突然の願い出に、文句も言わずOKが出た。煮転がし、カレイの煮魚など、お袋ならではの正月料理を食べ、一晩寝たら東京へ。一般学生の身になるには、それから3週間ほどかかる。

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2006年4月 2日 (日)

政治に走る入学1年目

学生運動が下火になったとはいえ、69年、70年の勢いがまだ残る大学。新入生にはまだまだ刺激が一杯だった。せっかちで単純な性癖の政治青年にとって、沖縄返還闘争をはじめとする学生運動は政治に関わる格好の場。そもそも政治を変えたいと出てきた東京。政治に意識が向くのは自然の流れ。一方で深い思慮があるわけではないのと、のんびりした田舎育ちがゆえ、関わり方もノンポリ風。格好だけはノンセクトなんてうそぶいてみた。

入学当初、まじめに授業に出ていた。そのうち、あちこちの授業でよく見かけるクラスの人と知り合いになる。彼の提案でカントの学習会を、4人でやることになる。高校・倫理社会の教科書でしかしらないカント。この友達、同じ年頃なのに、論理や倫理、哲学の話が尽きない。岩波文庫開いては、その考え方を話す。僕のような正義感一本の突撃論理とは違って、論理立っている。政治に哲学がないと危機感を抱いていたことも手伝って、以後マルクス、エンゲル、ヘーベルなど、よく理解もできないのに読んでみる。でも勤労学生の身。落ち着いて読み込む余裕もなく、勝手な論理を積み上げ、友達から撃退される。

当然の流れで、過激派セクトの学習会にも顔を出す。かなりの爪先立ち。元気だけが取り柄だけに、政治構造や哲学はどうしても受け売りを免れない。『朝日ジャーナル』や『エコノミスト』などを読んでは、社会体制の欠陥に憤る。優柔不断な性格も手伝って、過激な行動には尻込みしてしまう。ほかの学生から一目置かれるのは、口達者だからではなく勤労学生だから。会議や集会に遅刻するのって学生の特権だが、日中顔合わせる時間が限られるため、僕の時間に合わせてくれる。

夕刊配ってどんぶり飯食べたら、すぐ集会へ。デモが終わると、終電がないこともある。貧乏とはいえ、給料もらえる身。ほかの学生と違って、タクシー代は何とか都合が付く。心配なのは朝4時に起きられるかってこと。この年の秋は、沖縄返還、成田と、連日のように集会がある。大学でも確か学費闘争なんてあって、とにかく忙しい。そんな日々が年末まで続く。

4月 2, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月21日 (火)

ダイエットに効果、新聞配達

人身売買のようにして着いた先が武蔵小山の販売店。店長(オーナー)の家が棟続き。小学生と中学生の子どももいて雰囲気はアットホーム。しかも配達はみんな奨学生。配達を専業にしている人は、番頭さんだけ。規模も10人弱と大きくなく、みんな優しく、不安が徐々に解消。夕刊終わると、さっそく歓迎会。学生だけなので気安くアドバイスいろいろ。とにかく朝刊終わって寝たらダメ。昼頃目覚めて、夕刊まで時間がないから結局大学に行かなくなる。単位が危なくなる。注意されたのは、自分達が日常抱えている悩みだから。

新聞配達の1日は、朝4時の起床から。どんなに眠くても朝刊積んだトラックのキィーというブレーキ音と、ドタンッドタンッという新聞束を道路に投げ降ろす音で目が覚める。最初の数ヶ月、この音が恐怖。この音が聞こえると、蚕部屋から飛び起きて走って外に出た。新聞束を部屋に入れ、解いて、前夜ひとつにまとめたチラシの束を新聞に挟み込む。約30分。先輩はパシッパシッと小気味よい音を立てて新聞に挟み込むが、僕はドテッドテッ。スピードが違う。配達分ができたら、何回か分に仕分け。一度に自転車に乗せられないので。僕の場合、店の周りなので仕分けしないで、近所から走りまくる。店から道路を走っている姿が見える。トロトロ歩くわけにはいかない。

スポーツ新聞などを含め約300部。遠くは自転車で。1軒1軒離れている一戸建て。道路に面した入り口に郵便ポストがある家が大半だが、中には門を開けて玄関まで運ぶ家もある。4階建ての社宅や2階建てのアパートでは、一気に最上階まで走って登り、上から下って配達。エレベータがなかった。ガタガタ階段の音がうるさいアパートで、張り紙がされることも。いつもご苦労様、朝階段を上り下りする音がうるさいので、静かに歩いてください。この張り紙に気付くまでかなり日時が過ぎた。今頃遅いけど、ごめんなさい。

朝刊終わるのは7時頃。どんぶり飯を一杯食べ、先輩が寝るのを横目に大学へ。ここで寝たらまずい、1日が短くなる。大学に着くのが8時頃。まだ門が開いていない。階段に座って新聞読みながら門開くの待つ。毎日のこと、守衛さんと仲良しになる。1時限目や2時限目の教室で予習。もちろん誰も来ていない。夕刊に間に合うように3時には大学を出る。4時から夕刊。約2時間弱でお仕舞い。夕食もどんぶり飯。とにかくこの当時はよく食べた。自宅浪人で肥え太った70キロを超えた体、1ヵ月もしないうちに50キロ前半。毎日のことだから気が付かなかったが、五月の連休に仙台の友達に会ったら驚かれた。痩せて黒かった。

夜寝る前に広告のチラシを一部ずつまとめる作業。速い人なら30分くらい。僕の場合、約1時間。それで12時頃就寝。当時、休刊日が今と違って数ヶ月に一度。ほとんどなかった。暑さが続く夕刊、雨の日はとにかく嫌だった。雨で濡れた新聞を配りたくないが、余分がないので覚悟して入れる。案の定電話が来る。謝って、残っている少しましな新聞を届ける。このときの雷がきつかった。

3月 21, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

いよいよ東京生活

大学に受かって東京に来るまでには、それから1年。両親の前に正座して、1年自宅で浪人させて欲しい、もし受からなかったら就職するからと願い出た。予備校や高校の受験授業にと勧められたが、人と話すのが嫌で宅浪に。毎日6時起き。広瀬川の土手を走り、7時に朝食。12時に昼食、6時に夕食。食事の時間は父親が厳格で1~2分でも食事を出すのが遅れると母親が怒られる。もちろん、全員揃っていないと、これまた怒られる。この時間に合わせるしかない。何せ自宅にしかいないわけなので。

1ヵ月に1回の模擬試験に出掛け、1回ぐらい近くの同級生の家に顔出す。1回ぐらい散歩で、大念寺山の植物園に散歩。あとは、一番町など町の本屋に出掛けるくらい。外に出るのは都合1ヵ月に4~5回くらい。とにかくストイックな生活。高校3年でいろいろとあり、考えることが多く、根が暗い性格ゆえ話し下手。人と話したくなかった。明るい性格って思われがちだが、これって違う。親と話すこともなく、家でもほとんど声を出さないまま1年が過ぎた。

学費免除の朝日新聞の奨学生になり、有楽町の朝日新聞社で身元引き受けの販売店に身柄を預ける。目黒の都立大学前の販売店。迎えの番頭さんに連れられ、3月25日夕方販売店へ。何も知らずとにかく話を聞いて従っているしかない。知らない人ばかり。二段ベットの蚕部屋があてがわれる。部屋といっても狭い廊下を挟んで上下に二段ベッドがあり、畳1枚をカーテンで仕切るだけ。手荷物を入れると、横になるスペースがやっと確保できるだけ。朝4時、朝刊のトラックが来て、ドタドタと朝刊の束を店前に落としていく。何も知らない僕は、番頭さんに従って道路の一斗缶に薪をくべ、20人ほどの学生配達員の動きを見る。3月とはいえ寒く、暖を取りながら何も手伝えず、作業を見ているだけ。自転車に新聞を積み、みんな出て行く。一人残される。2時間ほどで配り終わる。途中何回か戻ってきては新聞積み直し、また出て行く。なるほどこんな寒い中でこれから配達するんだ、とちょっと不安に。

番頭さんと同じ大学だから、先は番頭になるんだろう、あいつは、なんてほかの人から噂が立つ。何だよ、この世界、変と思ってもまだ会話もできない。こんな嫌みな連中と同じ蚕部屋でいっしょに生活するのかとちょっとめげる。朝食のあと、みんな蚕部屋に引き上げたので、僕も。しばらくするとお呼びが掛かる。武蔵小山店に配属が変わるから、荷物まとめろ、昼には迎えが来る。エー、変な噂が立ってもここが僕の居場所と覚悟を決めていたのに、まるで人身売買のようにあっちの店へ行けって。そりゃないよ。何言えないまま。先方の店長に頭を下げ、軽自動車の後ろに荷物を載せ、助手席へ。トラックが大手を振って走る中、小さい軽のフォントガラスからは長い下り坂が続いていた。どこに売られて行くのだろう、僕の青春。

3月 13, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月25日 (土)

夢のカツ丼

あなたは知っていましたか。僕がカツ丼、好きだってこと。丼から溢れんばかりに盛り上がったカツの上にとじ卵。ふんわり柔らかそうで、グーとお腹を突き上げそうでした。テレビに現れるカツ丼、うまそうだなあといつもジーと見ていたんです。家じゃ出てこないし、食べ物屋さんに入る度胸なんてないでしょう。それにそんなお金を持っていなかった。外でご飯食べたら怒られそうだったしね。東京出たら、まず一番にやってみたかったこと、それがあのよだれが出そうなカツ丼食べることだったんです。一人でお店で食べるカツ丼ってきっとおいしいだろうって、夢見ていました。

大学受験で東京に一人。代々木の受験生村に着いた日、やっとカツ丼食べられると小躍りしていたんです。でも、カツ丼ってどこで食べられるか、知らなかったんです。新宿なんかに行けば結構すぐ見つかるのでしょう。でも新宿一人じゃ歩けませんよ、怖くて。それで、代々木八幡の駅降りたら、探してみたんです。ほとんど店もない、住宅街ですあの近辺は。宿とは反対方向に歩いてみたんです。少し歩いたら、少し汚れたショーケースの中にカツ丼を見つけました。ラーメン、焼きそば、オムレツ、野菜炒め……と並んで。ちょっと日焼けして埃かぶっていました。あの当時、ガラスがきれいに磨かれているショーケースってなかったですね。ジーと見ていたんです、これこれって。でも間口一間の小さい店、暖簾越しの磨りガラスのドア、開けられないんです。100円位だったかな。高いなあってこともあるけど、一人で入ったらどうなるんだろうって、それが気になっていたんです。

きっと2~3分はショーケースの前でじっと佇んでいたんです。ここで止めたら、ほかでも食べられないかもって気持ち取り戻して、入ったんです。ドキドキものでした。心臓破裂するんじゃないかと。きっと顔も真っ赤になっていたんでしょう。上がり症で、必ずっていうほど模擬試験でも上がっていましたから。

それできっとカツ丼食べたんでしょう。覚えているのは、店を出て歩道を少し満足げに歩いていることでした。どんな風に注文したか、どんな味だったか、いくら払ったか、覚えていないんです。覚えているのは、入る前と出てきてからのこと。でもきっと嬉しかったのでしょう。下り坂の右側に2階建ての家が何軒も連なっていて、優雅な広がりを新鮮な驚きで覚えていましたから。

2月 25, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月15日 (水)

迷子の東京デビュー

気:はぐれたんだって、上野駅で。
元:そう。受験で東京に出てきたときの話。高校が嫌になり行きたくなくなった1月、志望大学の直前受験講座が予備校であると知り、期末試験さぼって父親と夜行列車で上京。罰が当たったのかな。

気:もしかして親とはぐれたってこと。
元:中学の修学旅行以来の東京だから、本当に初めてのようなもの。汚かったな、上野駅。階段が薄暗くて、寒そうに裸蛍光灯が灯っていた。代々木オリンピック総合センターの受験生村が始まるまでの2週間ほど、吉祥寺の叔母さん宅にお世話になることになっていた。叔母さんといっても父親の叔母だから、僕にとっては大叔母さん。もちろん会ったことなどない。父親だってそんなに知り合いって訳ではなさそうで、詳しい話が今ひとつ。受験生村の申し込みや大学受験の申し込みなど、すべての手続きは自分でやっていたけど、学校行きたくないので、早めに東京へ出ちゃえと。で、直前講座の話、親にしてみた。すると、大叔母さんに頼んでくれ、急に決まって夜行列車。吉祥寺から予備校まで通学経路は調べておいたけど、吉祥寺の大叔母さん宅までは父親任せ。

気:で、どこで迷子になったの。
元:せっかちだね。まあ聞いてよ。夜行列車から降り、重いバック両手に抱え、階段を登って山手線のホームへ。参考書や本って結構重いんだよ。それに階段結構長いだよ、上野駅って。電車が来ていた。仙台じゃ、田舎のお爺さんの家に行くときぐらいしか、電車に乗ったことがない。田舎じゃ、電車の発車ベル、長いこと鳴っている。なかなかドアが閉まらないんだ。のんびりしたもんさ。発車ベル聞こえていたけど、まだ大丈夫と思っていたわけ。

気:で、どこで迷子になったのよ。
元:先に階段登っていたはずの父親。僕がホームにやっとこさたどり着くと、いないんだな。で、電車が発車。見ると、親父が慌てた顔でドア越しに叫んでいる。何言ってるか聞き取れない。あー、行っちゃった。しばし呆然。どうすんの、こんなとき。

気:それで、はぐれたわけね。田舎ものの君らしいよ。東京の電車はベルが鳴ったら、すぐ出るんだよ。で、どうしたわけ。
元:重いバッグをホームに置きっぱなしにしていいか、上野を離れていいか、ちょっと悩んで、駅員さんを探したんだ。もちろん荷物持って。朝6時頃だから、ホームに人はほとんどいないけど、駅員さんもいない。ホームの外れに事務所を見つけ、ドア開けて、親父がさっきの電車で行ってしまった、電車の放送で呼び出して欲しい、と訴えた。でその電車、何分発なの、何号車に乗ったの。そんなことわかるわけない。さっきの電車。でも探しているうちにもう1本、過ぎたみたい。放送してみるから、外で待ってて、連絡が取れたら教えるから。またホームの乗ったあたりで待つ。待てど暮らせど、連絡なし。

気:そりゃ、大変。一人で叔母さんの家に行けるの。
元:だから、吉祥寺にあるってだけで、知らないわけ。確かお金も持っていなかったはず。

気:なら、置いてけぼり。捨てられたんじゃないの。
元:ときどき駅員さんが声をかけてくれる。放送したけど、見つからないねぇ。寂しいというより、何をすれば連絡が取れるか、一所懸命考えていた。でも、こんなときの対策まるで考えていない。そのうち通勤時間帯になりホームも混み始める。ホームの隅に動いて、ただただ待つだけ。

気:で、会えたんだよね、どこで。
元:駅員さんが新宿駅にいたって。駅の構内放送でわかったから、もうすぐ来るよ。そうやっと見つかった。時計を見たら、9時過ぎてた。

気:親父さん、やっぱり見捨てる気はなかったみたいね。で、その間どうしていたの、親父さんは。
元:次の駅で降りて、すぐ戻ってきたんだって。でホームにいると思ったら、いないので、山手線に乗ったかと思い、また乗ったそう。受験終わって、お祖母さんから、聞いたよ迷子にしてしまったと、えらい落ち込んでいたよ、お父さん。一大事だったけど、僕の関心事は受験とその後のことでいっぱいで、親父が落ち込んでいたなんて、気にも留めなかった。そういってやれば、少し気が楽になったかな。そんな余裕もなく、この話は胸の奥深くにしまい込まれていた。
これが、華々しい僕の東京デビューさ。

2月 15, 2006 自分史 | | コメント (0) | トラックバック (0)