2006年9月28日 (木)

切れる子ども考 3

あなたの子ども時代には、「切れる」という言葉はなかったでしょうね。テレビを見ていて「切れてる」「逆ギレだ」と語っている場面、実は、戸惑ってどう反応していいのかわからなかったり、言葉がうまく出なくて黙りこくったりすることって、多いでしょう。そんな場面なら、僕の子ども時代にもありました。僕の場合、結構苛立つことってありましたね。でも、僕らの時代より、苛立つことって多くなっている気がするんです、いまは。
昔と比較しようって訳じゃないんです、そんなの難しいじゃないですか。ただ、苛立つ場面が多いのだろうと想像しているんです。

車の運転中、結構苛立って無謀な運転することって多いですね、普段大人しい人でも。運転中って、体内リズムがアップしているのでしょう。信号が黄色でも突破! 横断歩道をゆっくり歩くお年寄りに急げとせき立てる……。運転していなけりゃ、そんな苛立ちもないのに。

一般に子どもの体内リズムは、アップテンポらしいです。でも現在、テレビを見てもわかるように、テンポが速いです。ゆっくりテンポのNHKに馴染むのはお年寄りが多く、子どもは退屈と、チャンネルを変えてしまいます。
その上、大人の動きが速いです。親や教師だけでなく、社会の動きが速い。アップテンポの子どもが、さらにテンポの速い環境の中にいる。体内リズムは、常にアップです。寝ているときのリズムを静とすれば、かなりハイレベルでしょう。とすれば、静とハイの差が激しすぎます。当然ついていけない瞬間はある。意に沿わないことで激することもある。
体内リズムだけを、社会環境だけを問題にして、言い逃れしようとしている訳ではありません。親が忙しい、先生が慌ただしい、社会が性急だ、ということが子どものリズムをハイにしている、それが伏線になっているといっているだけです。社会的な責任だけで事足れりとする気はありません。

もちろん、家族によっては、家庭でゆったり時間を作っている人たちもいるでしょう。ただ一歩家を離れると、性急さが支配しています。結果をすぐ求める環境があります。

誰でもそうでしょうが、僕も子どもの頃、親や先生に苛立ったり、反抗したり、無視したりした。ただ解決不能なことが多かった。苛立っても、我慢し諦めることが多かった。あるときは、いまにみろ! と誓ったもの。大人になれば……と我慢するってことがあった。大人社会は、子どもからは手が届かない社会で、有無を言わさないのは、自分が子どもだから、大人になれば言われなくても済むことってあった。

子どもって、敏感に大人社会を見ている。いま、大人社会は、テレビなどで見て取れ、すぐそこにあるもののように映る。サラリーマンになってどうする! と大人を訝る。働く大人より、遊べる子どものままの方がいい。文句も言われない大人のような子どもで、自由に遊んでいたい。これは、現在の特徴。自由にしたいなら、自分で稼いで独り立ちする、という僕の頃とは違う。僕もいまの時代なら、「子ども大人」の方が楽だと思う。

子どもの目に映る大人社会は、あまり入りたくないもの。そんな社会では、大人になれば自分の自由がある! いまにみろ! なんて我慢のしようがない。苛立っても解決できるはずの将来を描けない。そんな状態がストレスをさらに高めているのだろう。

なんか、社会的な分析みたいになって、また社会的な責任に言い逃れしていると、あなたは呆れていますね。社会にばかり転嫁する気もないのですが、親個人の責任に転嫁できないってこと、言いたいわけです。親がどんなに愛情を込めて子どもを育てても、ある時期切れた子どもになることはある、いや、切れた子どもになるのが当たり前ってことです。じゃあ、切れた子どものままでいいの? とあなたなら問い返すでしょう。それには答えられませんが、親の、特に共稼ぎの親の責任にするって変ですね。まして、教育改革に走れば、解決するかの如く幻想を抱かせるのは、いけない。そう、思うわけです。

9月 28, 2006 日記・コラム・つぶやき, 育児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月26日 (火)

切れる子ども考 2

あなたもご存じでしょうが、我が子だって、切れた、逆ギレだってことはあります。でもそれって、僕の子どもの頃なら、ひねくれた、いじけたってようなもの。ムスーとしている。意に沿わなかったのでしょうね。

以前学校が荒れている、校内暴力だって叫ばれたことがある。我が子の友達がいたクラスも荒れて、親が交代で毎日授業参観ってことになったり、責められた先生が長期療養に追い込まれた。いま、校内暴力が減り、子どものストレスは内向し、切れるようになったとマスコミが取り上げている。切れる子どもが増えた、と騒がれる。

現象としてはそうでしょう。

校内暴力と騒がれたときもそうだったが、多くの人が原因として挙げるのが、親の育て方と教師の資質。親の躾がなっていない、教師が毅然とした態度をとらないなど。特に親の責任が問題になり、家庭教育の改善が話題に上る。親の責任を指摘されると、我がことのように萎縮してしまう。ニュースになった子ども事件があると、我が身を当の親に置き換え、取材されたらどういえばいいのか、近所には何と言い訳するのか……と悩んでしまう。

家庭教育が悪い、子どもの躾が悪い。結果、子どもが切れた。
こう言うあなたに、いや、とは言い難いものがあります。確かに親の責任はあります。親だって、こう育てていれば……って残念がることが多いはずでしょう。でも、親の責任を、赤ん坊時代からの育て方に話を広げるのは、違うでしょう。もちろん、育て方によって子どもが変わることもありますが、親の育て方だけで子どもの個性が決まるものではないでしょう。共稼ぎでの育児が愛情不足になる、それが子どもの情緒不安定になる、という一面的な見かたでは、説明できないでしょう。共稼ぎでの育て方が大変なことは事実です。でも、それが愛情不足、触れ合い不足と断罪するのは変です。子どもとの接する時間が専業主婦に比べ少ないことが愛情不足や情緒不安定の原因とは、言い切れないです。

ある育て方をすれば、こんな子どもに育つ、という方程式を想像しがちですが、そんなものはないでしょう。それはわかるが、接する時間が育て方に影響する、とあなたはいいます。たしかにそうです。でもそれは、情緒不安定な子どもに育つとは限らないでしょう。懸念することはわかりますが、結果がどうなるかは誰もがはっきり言えないものです。責任逃れと言われても、ある一時期の子どもの状態のみを取り上げ、切れている、社会に不適合だ、と結論づけるのは早計です。

僕が心配しているのは、共稼ぎ→愛情不足→情緒不安定な子ども、と直線的に捉えるものの見方です。教育を話題にするとき、このような傾向が顕著です。現在の自分が、現在の自分の子どもが、3歳までの育児で決定された、とは言い切れないのです。三つ子の魂、百まで、とよく言われますが、幼児期の育て方が大切という意味です。決まり切った育て方があるわけではないでしょう。なのに、教育や子どもの事件を取り上げると、すぐに原因を求めたがる。そして性急に結果を求める。これが、「教育改革」などと騒がれる。あまりに一本調子なものの捉え方です。ものごとは、原因→結果と決まると、わかりやすいものですし、その方が話が早い。でも、そんな単純に教育、家庭教育、育児を捉えることはできません。

話が少しそれたようですが、切れるという話に戻りましょうか。

9月 26, 2006 日記・コラム・つぶやき, 育児 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月25日 (月)

切れる子ども考 1

あなたは、呆れていましたね、若い者の気持ちがわからないって。僕たちに子どもができたとき、小さいうちは親の手で育てるものよ、と諭していましたね。母親の愛情が、触れ合いが大切なのに、ほかの人に預けるなんて。子育てをどう考えている? 父親のあなたがしっかりしないといけないんじゃないの!

僕たちは共稼ぎで、産後8週目から保育ママにお世話になった。共稼ぎに不思議さを感じていなかった。僕の稼ぎが少なかったから、彼女が退職しなかった、ということより、子育てだけの生活って想像できないと職場復帰を望んだ彼女。仕事をしようが、二人で育てていくのは当然、と何の疑問も抱いていなかった。

あなたが、子どもの情緒は幼少期の親の愛情によるのよ、と語気強く諫めたときだって、その通りだろう、と疑わなかった。同じ思いでも、やり方はほかにもあると信じていた。

近頃子どもが切れやすくなった、と取り上げられことが多い。原因は、幼少期の愛情不足、特に母親の触れ合いが足りないから、と。親、特に母親への風当たりが強い。社会的な現象といわれても、どうしても我がこと。すでに大きくはなったとはいえ、我が子が切れやすいか否かは判断が付かない。

あなたが懸念していたことが当たったともいえ、社会現象に一般論で語りにくいのがこのテーマ。かといって、個別僕らの子育てのみで、社会現象は違うとは言い得ないもどかしさがある。
そのあたりから、この話題を取り上げるしかないでしょうね、あなたの琴線に少しでも触れるには。

9月 25, 2006 日記・コラム・つぶやき, 育児 | | コメント (0) | トラックバック (0)