2007年11月10日 (土)

末は博士か大臣か

新聞に、博士号取っても定職に就けない「ポストドクター(ポスドク)」が出ていた。融通が利かないらしく、大企業などが敬遠している。さもありなん。

ウン? 「末は博士か大臣か」と、立身出世の旗頭の一方の博士。いつの頃から、このことばが出たのか? 確かに僕が子どもの頃は使われていた。大臣は律令の昔から、まつりごとを行う文官のトップを指していた。その地位を敬うのは、聖徳太子の時代から、あるいは古い中国の時代からあったのだろうと察しがつく。で、博士は? 仮に、大臣・博士が出世の最高峰とするなら、庶民が口にし始めたのはいつ? 湧き上がる疑問。

調べてみた。

どうもはっきりしない。博士が制度として認められたのは、1887年5月7日。学位が定められ、法学博士、医学博士、工学博士、文学博士、理学博士が誕生した。問題は、制度化される以前にも「博士」はあったはず。降って湧いたような名称ではない。その辺りの突っ込みがなかなかうまく進まない。明治20年前後に制度化されたのなら、それ以降に「末は博士か大臣か」ということばが生まれたのか。それ以前からあったのか。

士農工商の江戸時代には、人々の口には出ていないような気がする。明治に入り、富国強兵、殖産興業政策の中から生まれたのだろう。学校教育がはじまり、学問を積むと、偉くなれる。その象徴が、博士と大臣だったのか。現実には、軍人が憧れだったりするのだろうが、文民統制で博士と大臣になったのか。

当時の新聞などにあたるしかないのかもしれない。グーグル検索で15,00件ヒットしたので、追いかけてみた。775件で、これ以上は再検索を、と出てしまった。庶民が高尚な方々を総称していえるようになるわけだから、新聞が介在しているはず。伝聞でこのことばが広がったとは思えない。明治時代は、新聞の役割が相当高いはず。

ちなみに、菊池寛の作品に『末は博士か大臣か』があるらしい。フランキー堺主演の映画もあるようだ。

なぞはなぞを呼ぶ。いつか暇な折り、文化史研究家にでも尋ねてみよう。

11月 10, 2007 学問・資格 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月16日 (土)

法則とは、理解するための説明

あなたなら、当たり前でしょうって、何をいまさらって、軽く受け流すでしょうね。物理や科学の法則は絶対でないってこと。
でも、ちょっとスジが違うかもしれないんです。うまく説明できない。でも聞き上手なあなたなら、きっとこのあやふやな話、わかってくれるんじゃないかな。

そう、焦らせないで、じっくり聞いてください。

中学や高校の教科書によく出てくる法則。たとえば、作用・反作用の法則ってご存じですよね。てこを使って大きな石を持ち上げたりする原理。
池に浮かんでいるボートが2艇あったとします。オールで片方のボートを押すと、自分のボートも後ろに下がってしまう。向こうに押したのに、押されたように自分の方も動いてしまう。これも、作用・反作用の法則の例によく出てきますね。確かに、力は向こうにしか向けていないのに、逆の力が働いたように動いてしまう。ここで、ちょっと法則の説明。作用の力に対して、逆向きの等しい力(反作用)が働く。これって、ニュートンが発見した。

当たり前のように思っていますよね。じゃ、壁を押したとしましょう。すると、壁が僕を押し返しているってことになるんです。頑丈な壁だけど、僕が押したら、意志があるみたいに僕を押し返すわけ。これが、作用・反作用の法則。少し変でしょう。僕の力が壁の力を生み出したみたい。おかしいって言うと、ボートの話やてこの話を出す。同じでしょうって。煙に巻かれたように納得できないまま、すごすごと退散。

あなたなら、そんなこと、どうだっていいじゃない。壁押したら、崩れた訳じゃないんだからって、茶化すかもしれませんね。壁に意志なんかあるわけないでしょうって。僕もそう思うんです。ニュートンだって、リンゴが木から落ちたのが不思議だったように、ボートを押したら押し返されたのが不思議だったんでしょう。逆向きの力が働いたって思ったら、大発見。納得できるってことになり、あれもそう、これもそうってなったわけでしょう。で、自然には作用・反作用の法則がある、と言ってみた。おおー、そりゃすごい。不思議がこの説明で納得できるって。
それで、自然には作用・反作用の法則があるって話になる。ちなみに、ボートの話はニュートンがやったわけじゃない。

でも、壁にまで逆の力があるって法則に無理があるでしょう。というか、自然には万物を貫く法則があって、それを発見したんだ。法則を理解すれば、不思議は説明できるって思ったわけでしょう。これが、おかしいって思うんです。ボートの不思議は説明できたけど、壁の説明では変。それを強引に自然法則だなんて、すべてを説明できる法則があるって思い込んでしまう。変でしょう。
押したのに押されてしまうボートの不思議って、作用・反作用で説明できたけど、すべてにわたるかっていうと、そうじゃない。でも、自然の法則が働いているって思い込んでしまう。つまり、自然には法則があって、それに従って説明できるって。個別ボートの現象を説明する作用・反作用が、自然界すべてに行き渡っていると。

不思議を説明できたときの快感は、ものすごいだろうけど、自然界にその法則があるって話になると眉唾なんだけど、そう言ったら袋だたき。常識がないって言われかねない。法則って、不思議を説明するためのものだったのに、その説明が自然界にあって、それを発見したと逆転してしまう。変でしょう。あなたなら、自然界が、誰にとっても客観としてあるから法則が成立するって、先読みするでしょうね。そこなんです。自然を、自然の不思議を知りたいと思って、こうじゃないかって話が、実はそれは自然の法則だって話に変わってしまっているってことです。

だいぶ話、長くなっちゃいましたが、最近こう思うんです。当たり前の話と言われるでしょうが、自然界に法則なんてない。あるのは物事を説明しようとしたときに飛び出した説明。それが誰もが納得したら、おめでとう、法則ってことにしようってお祝いしたい。自然の摂理や成り立ちだなんて、普遍化するのは持ち上げすぎ。

西欧じゃ、古代神からキリスト教に至るまで、神が世界を生み出し、一定の法則の下、自然を動かしていると考えられていたから、法則は自然法則として普遍化してしまうという土俵ができていたでしょう。不思議なこと、不可解なことは、神のみぞ知る。不可解なことを神の法則として体系的に理解しようとするって姿勢は、世界がある秩序で動いているって思うからでしょう。そこに自然法則が生まれる訳があるんだけど、どうもそこが変。
ほらっ、欠伸出てきたでしょう。ですよね。でも、最後にひとこと。法則って、広げなくてもいい。普遍化しなくてもいい。ある現象の説明で充分。普遍化しようとすることで、客観や客体が生まれ、他在としての法則が跋扈することになったんでしょう。

我慢強いあなたでも、飽きてきたでしょう。でも、もう少しうまく説明できるようになったら、また聞いてください。当たり前かもしれないけど、その当たり前をひっくり返したいわけなんです。

9月 16, 2006 学問・資格, 心と体 | | コメント (0) | トラックバック (0)